脳内地図

たった十二冊の本を全集に「見立て」るだなんて、まったくもっておこがましい。ふざけるにもほどがある。といわれても仕方がない人生を歩んできた。死んだ父が、いつも「直之はくだらん!」と口にしていたが、それがやっぱり若くして亡くなった弟の知之と比べての発言であったことは、この一枚の家族写真に明らかだ。真面目に取り組もうとすると、ふざけようとするブレーキがすぐに働いてしまう。
二十代後半には真面目な美術館学芸員を目指して、「近代美術」を追いかけていたのに(何といっても職場が近代美術館だった)、三十代後半になると、「近世芸能」といったらよいか、前近代の見世物やら芸能やらに引きつけられていた。茶番とか、茶化すという言葉を知ったのもこのころだ。近世の美術も芸能も笑いにあふれていたというのに、近代に入ると見事に美術から笑いが消える。
前者を象徴する「作品」をいったん捨てて、後者を象徴する「つくりもの」に身を寄せ、そこから現代社会を眺めてきた。すると、銅像も裸体彫刻もいったんは金属の塊にすぎなくなり、それから風景の中でそれぞれの役割を演じ始める。「股間若衆」という言葉は、赤羽駅前での天の啓示
としか思えない。ほぼ十二冊の著書の背後にほぼ一二〇冊のノートがある。さらにその背後にほぼ六〇〇冊のファイルがあり、PCの中にもファイルがある。その系統図をこの壁に書き出してみたら支離滅裂、複雑怪奇で自分でも驚いた。

麦ノート

いつも持ち歩いているノートが一二〇冊に達した。その第一冊の冒頭に、神戸駅構内にあったミカド食堂の紙ナプキンが貼ってある。あのころは神戸のミカドホテルに由来するミカド食堂に入り浸り、他の駅でもミカド食堂があれば入るようにしていた。東京駅にも名古屋駅にもあったが、今はもうない。それからしばらくは鼻毛を貼った風の表紙がつづき(夏目漱石が原稿用紙に鼻毛を貼り付けていたという噂に倣い)、下の息子が十歳になったころからは表紙絵を頼んだ。五〇〇円で始まった原稿料は、二九歳になった今は一万円に跳ね上がっている。