つくりもの辞典
法勝寺一式飾り(鳥取県西伯郡南部町)
つくりもの【作物・造物】(名)①人間が、材料から道具などを使って作り出したもの。②田畑の作物(さくもつ)。耕作物。農作物。③物の形を模してつくった、飾り物。賞玩用に種々の物の形につくったもの。*看聞御記 永享五年(一四三三)七月五日「草花難得之間、異形之物等立、梵祐種々造物廿二瓶進」④種々の人や物などの形をつくって飾った、祭礼などの時の出しもの。趣向をこらして、人形や物を配置した見せもの。*源平盛衰記(一四C前)三・殿下事会事「廿二日の朝、六波羅の門の前に、をかしき事を造物にして置けり。土器に蔓菜を高坏にもりて、折敷にすゑ、五尺計なる法師の〈略〉かはらけの汁をにらまへて立ちたるを造りて置けり」⑤(③④から転じて)似せて作ったもの。まがいもの。偽造物。にせもの。⑥事実を記したものではなく、虚構によってつくり出した事柄または作品(『日本国語大辞典』)。
四季造物趣向種
左:「杓子如来」鬼拉亭力丸編
右:「恵美須」鬼拉亭力丸編
松川半山画図『四季造物趣向種 初編 坤』より、
天保8年(1837)/百物館所蔵
「つくりもの」とは日用品を組み合わせて、別の何ものかをつくり出す遊び。こうした行為を「見立て」という。材料とつくられたイメージとの落差が大きいほど面白い。材料を変形させないこと、同種類のものを使うこと、材料が何であるのかを明らかにすることが鉄則だ。これを「一式」(一色に通じる)とし、「一式飾り」と呼ぶこともある。しばしば言葉遊びがからむ。『造物趣向種(つくりものしゅこうのたね)』はその名のとおり、天明七年(一七八七)に大阪で出版された種本、明治になってもまだ版を重ねるロングセラーだった。
とんだ霊宝
〈開帳仏細工物 とんだれいほう〉
墨摺番付
安永6年(1777)川添裕コレクション所蔵
安永六年(一七七七)、江戸両国広小路で開かれ、評判を呼んだ乾物細工の見世物。三尊仏が魚貝の干物でつくられた。すなわち、尊体は飛魚(とびうお)、尊顔は串貝、天衣は鯣(するめ)、後光は干鱈(ひだら)、台座は吸物椀から成る。材料とそれがつくりだすイメージとのとんでもない落差が面白がられた。『四季造物趣向種』(一八三七)から杓子でできた薬師如来(杓子如来)、『絵本見立百化鳥』(一七五五)から毛抜きの「けぬ木」と爪切りの「爪とり」、羽箒の「はぼう木」と塵取りの「ちり鳥」など、ここでも言葉遊びがからんでいる。
祭りのつくりもの
右:せともの祭り(大阪府中央区久太郎町)
左:法勝寺一式飾り(鳥取県西伯郡南部町)
祭りで、つくりものは楽しまれた。祭りは日常から切り離されたハレの日であるというだけで気分が高まり、つくりものを眺め歩くことでさらに盛り上がった。趣向を凝らし、技を競う。江戸時代の大阪で盛んだったことは間違いない。それが各地に伝わった。瀬戸物問屋の集まる西横堀川瀬戸物町の地蔵祭りに、古くから瀬戸物を組み合わせて人形がつくられてきたことを考えると、どうやら商品の流通と関係がありそうだ。現代でもなお、西日本各地につくりものを飾る祭りが数多くあり、ここでは鳥取県西伯郡南部町の法勝寺一式飾りを紹介する。
右:福岡町つくりもんまつり(富山県高岡市)
左:金津まつり本陣飾り物(福井県あわら市)
毎年九月下旬に二日間だけ開かれる祭り。地域住民が集まり、野菜だけでつくりものをつくる。当地では「つくりもん」と呼ぶ。つくる先から野菜は傷んでいくから、準備も制作もそれを見て歩くのも短期決戦である。材料を必ず書き出して掲示する。
毎年七月中旬に三日間開かれる金津神社の例大祭。金津は北陸街道の要所で、宿場として栄えた。本陣に日用品を用いた飾り物をつくって、参勤交代の殿様や役人を労ったことに由来するとして、「本陣飾り物」の名前を今も使う。明治一〇年(一八七七)に祭りの一部として復活、昭和三五年(一九六〇)からは本陣飾りコンクールがつづいてきた。
三ツ山
三ツ山(兵庫県姫路市)
播磨国総社、姫路の射楯兵主(いたてひょうず)神社の祭りは二〇年に一度しかやって来ない。したがって、人生に五回見られたらよい方か。私は一九九三年にはじめて訪れ、つぎにこの三つの山が姿を現すのは二〇年後なのかと思った時にひどく感動した。山のひとつは「小袖山(こそでやま)」といい、小袖のつくりものにほかならない。姫路が空襲で焼かれるまでは、商家の屋根がつくりものの舞台だった。見物人はそれらを見上げながら、町歩きを楽しんだ。今は町の様相がすっかり変わり、つくりものは地べたに置かれる。
神田明神祭礼図巻
〈神田明神祭礼図巻〉神田明神所蔵
神田明神は江戸の総鎮守として、とりわけ町人たちの信仰を集めた。隔年九月に執り行われた神田祭は、赤坂の山王権現(現在の日枝神社)の山王祭とともに江戸城内に入ることを許された。祭神を載せた神輿のあとを、各町の山車がつづき、さらに選ばれた町が「附祭(つけまつり)」と称して大江山凱陣や浦島太郎の帰郷、源義経の奥州征伐や朝鮮通信使など趣向を凝らした仮装行列を出した。神田神社所蔵のこの図巻は総長およそ五〇メートルあり、そのすべてを会場でご覧に入れた。
神田祭の面影
〈神田明神御祭礼附祭番付〉
神田明神所蔵
山車(だし)は民俗学者によるあとからの当て字で、江戸では「出シ」と呼んだ。台車に人形やつくりものを飾り立て、練り歩いた。ここに嘉永四年(一八四九)の絵番付を示す。幕末から神田祭の山車は人形を戴く二階建てのタイプになり、これを江戸型山車と呼ぶが(赤坂や川越の氷川祭で)、それ以前は一本の柱を立てるタイプだった。万度(まんど)型山車と呼ばれるこのタイプの山車は、遠州横須賀三熊野神社大祭で見ることができる。当地では山車ではなく「袮里(ねり)」と呼ぶ。
神田祭附祭復元プロジェクト
町神輿中心の現代と違い、江戸時代の神田祭には町人たちが仮装して練り歩く長い行列が出た。その姿を復活させるプロジェクトに、神田神社が取り組みはじめた。文化資源学会はこれに賛同し、創立五周年記念事業として二〇〇七年から参加することになった。まずは大江山凱陣の行列、『江戸名所図会』が伝える須田町の行列をまねた。つぎはゾウを曳く行列で、こちらは山王祭の名物にちなんだものだった。それから、花咲爺さん、浦島太郎と行列を増やしてきた。
見世物辞典
見世物〈百工競精場〉引札 吉德資料室所蔵
みせもの【見世物】(名)①珍しい物や芸などを料金を取って見せる興行。また、その出しもの。*俳諧・俳諧三部抄(一六七七)上・春「見せものに麒麟も出ん御代の春〈立志〉」*随筆・守貞漫稿(一八三七‒五三)「見世物木偶或は紙細工糸細工硝子細工竹細工等の類其他他々珍とする物等を銭を募て見世る也」②他人から興味本位で見られること。また、そのもの。*あたらよ(一八九九)〈内田魯庵〉「やいやい、退け退け、見世物ぢゃアねェ」③うわべだけで、相手に見せびらかすもの(『日本国語大辞典』)。みせもの(名)【見世物】場ヲ構ヘテ、珍奇ノ物ヲ列ネ、或ハ遊戯ノ業ヲナシテ、銭ヲ受ケテ衆ニ見スルモノ。観場(『言海』)。MISEMONO ミセモノ観物 n. A show, exhibition, anything exhibited for money:—wo dasu, to open an exhibition (『和英英和語林集成』)。
籠細工
左:「関羽の籠細工」『新卑姑射文庫 二編』
名古屋市博物館所蔵
右:〈籠細工〉 大判錦絵 歌川国定画、
山本久兵衛版
文政2年(1819)/川添裕コレクション所蔵
つくりものを見せて金を稼ごうという輩が現れた。文政二年(一八一九)、大阪の籠職人一田(いちだ)庄七郎が、四天王寺門前に籠で巨大な釈迦涅槃(ねはん)像をつくって、ブームに火をつけた。すぐに江戸に下って、人気を博した。さらに各地を巡業、名古屋での興行の様子は猿猴庵(えんこうあん)の絵本『新卑射姑(しんひごや)文庫』に克明に記された。このころから幕末にかけて盛んに開かれた細工見世物は、籠細工に限らず、荒物細工、羽二重(はぶたえ)細工、縮緬(ちりめん)細工、紙細工、金物細工、瀬戸物細工、銭細工、貝細工、乾物細工、菊細工と何でもありだった。
貝細工
「貝細工、植木花壇」『新卑姑射文庫 三編』
名古屋市博物館所蔵
猿猴庵『新卑射姑文庫』三編が、文政四年(一八二一)夏に名古屋城下大須観音門前で催された大塚看造の貝細工見世物の様子を克明に伝える。植物や動物を表現したものが多い。この興行での目玉は、龍に乗る江ノ島弁財天の姿、すべてが貝でつくられていた。現代の江ノ島でもなお貝細工が土産物として売られているものの、大物は店頭から姿を消した。会場に展示した花は二〇年ほど前に江ノ島で買い求めたもの、猿猴庵の描く貝細工にほぼ直結している。
麦殿大明神
〈麦殿大明神〉歌川芳盛
国際日本文化研究センター所蔵
つくりものの世界の住人であることは、その衣装でわかる。「烏犀角(うさいかく)」という薬の袋をつないだ鎧を身につけているからだ。紙の袋だから鎧としては役に立たないなどと考えれば、それはつくりものの世界の法則を知らない人だ。麦殿大明神が倒すべき敵は病である。麦の穂の先端にある棘状の突起を「はしか」といい、これを以て麻疹と闘った。正確にいえば、麻疹(はしか)をもたらす麻疹神を相手にしたのだ。麦殿の絵姿を家の中に貼っておくだけで効き目があった。
生人形
〈浅草奥山生人形〉大判錦絵、歌川国芳画、井筒屋庄吉版
安政2年(1855)/川添裕コレクション所蔵
ともに熊本出身の人形師、松本喜三郎と安本亀八によって、幕末の見世物界で大ブレイクした。まるで生きているかのような迫真性を売りものにしたがゆえに、「生人形(いきにんぎょう)」あるいは「活人形」と称した。籠細工や貝細工といった細工見世物人気の延長線上に登場したが、材料を明かさないという点では、見立て細工と一線を画している。むしろ、衣服を着せて、本物の人間に見せようと苦心した。衣服の下に性器まで備えたものもあり、性的な表現を色濃く有していたはずだ。
猿猴庵の世界
「見せ物小屋の入り口」『絵本駱駝具誌』名古屋市博物館所蔵
尾張藩士高力種信(こうりきたねのぶ)は絵心があり、猿猴庵(えんこうあん)という筆名で、名古屋城下の祭りや見世物を克明に記録した。見世物の口上から周辺で売られた関連グッズまで、出来事の一部始終を描く希有な記録者だった。名古屋の大須観音にラクダの見世物が巡業してきたのは文政九年(一八二六)の冬、雌雄二頭のラクダが仲良く寄り添う姿を見るだけで「夫婦和合」の御利益があった。「らくだの毛、疱瘡はしかの守り」になるとうたい、小屋では実際にそれを販売した。それから一九〇年後の二〇一六年秋に、大須大道町人祭でラクダ行列が再現された。