戦争のつくりもの
A.「模造定遠号及致遠号焼撃花火の夜景」 B.「模造定遠号」 C.「式場」 D.「模造玄武門」 E.「分捕品陳列所」 F.「川上一座仮装日清戦争演劇」 A~F.土田政次郎編『東京市祝捷大会』明治28年(1895)
日清戦争は近代日本が経験した最初の本格的な対外戦争だった。戦線に送られた兵士は、徴兵制度によって動員された国民であり、国外に敵をつくることによって国内がひとつになる、国民意識を高めるという結果になった。まだ戦争の半ば、行く先がどうなるかもわからない明治二七年(一八九四)一二月九日、東京の上野公園を会場に盛大な祝捷(しゅくしょう)大会が開かれた。入口に平壌の玄武門が建てられ、そこを突き破って入場=入城するという趣向だった。公園内では野外劇、野試合、分捕品(ぶんどりひん)陳列、野戦病院再現などの余興がつぎつぎと行われ、クライマックスは、夕暮れから不忍池で行われた海戦だった。清国軍艦「定遠」を池に浮かべて焼き討ちした。
「二重橋前勢揃」『東京市祝捷大会』
「日比谷勢揃」『祝捷大会 東京市之盛況』 明治28年(1895)
都新聞 1894年12月11日より
「都新聞社の龍の首」『戦国写真画報附録東京市祝捷大会』 明治28年(1895)
世の途中から隠されていること 広島の場合
凱旋碑/平和塔
広島は近代の日本が朝鮮半島・中国大陸に軍隊を展開する拠点だった。宇品(うじな)港から兵隊も武器も送り出された。広島市内から軍港に向かう道の傍らに「凱旋碑(がいせんひ)」が建てられたのは明治二九年(一八九六)春、まさしく戦場から凱旋する軍隊を迎えるものだった。ところが、現在は柱に刻まれたこの文字が消え、代わって「平和塔」と刻まれている。背後に回ると「昭和二十二年八月六日」という文字があるばかりで、この記念碑が元は何であったのか、いっさいがわからないようになっている。
史蹟明治二十七八年戦役広島大本営
日清戦争では広島城内に大本営が置かれ、七ヶ月にわたって天皇が駐在した。天皇が軍の統率者だったからだ。そのため、天皇の質素に暮らした建物は「史蹟」として大切に保存されてきた。原爆はこれを天守閣もろとも吹き飛ばし、今はそこに礎石だけが残り、ほぼ放置されている。いや、「史蹟」であることを示し続けてきた標柱も残ってはいるのだが、「史蹟」の文字だけが塗りつぶされている。何とも奇妙な記憶の伝え方だ。
原爆ドーム
原爆ドームは壮麗なデザインではあったけれど、単なる建物だった。破壊されたあとは、今度は単なる廃墟に過ぎなかった。地獄図を思い出したくないから壊せという声も多かった。それは東北での「震災遺構」をめぐる現在の議論に通じる。つまり、「原爆ドーム」は新たに建設されてきたのである。ここに展示した原爆ドームをつくるというプラモデルはその象徴的なものだ。しかし、多くの建築保存が竣工時の姿に戻そうとするのに対し、原爆ドームは破壊された姿をそのまま保存し、後世に伝えるという難題を抱えている。
日本にも凱旋門があった
凱旋紀念門 (静岡県浜松市)
山田の凱旋門 (鹿児島県姶良市)
凱旋門ビル (宮城県仙台市)
エトワール凱旋門
(パリ)
ヨーロッパでは、ローマ帝国時代に、つぎにルネサンス期に、さらにはナポレオンの時代に、繰り返し古代風の凱旋門が建てられた。その大半がハリボテの仮設建築であり、石造で建てられたローマのトラヤヌス凱旋門やパリのエトワール凱旋門、カルーゼル凱旋門が例外的に残っているのだ。それが明治の日本にも伝わった。日清戦争、日露戦争で勝利を重ねたがゆえに、凱旋門が求められ、各地に林立した。やはりハリボテが多く、数ヶ月で取り壊されたが、静岡県浜松市に煉瓦造の、鹿児島県姶良(あいら)市に石造の凱旋門が奇跡的に残っている。仙台を代表する盛り場国分町にもエトワール凱旋門そっくりの凱旋門があるが、こちらの内部はバーとスナック。