ものづくし
煮物、焼き物、揚げ物、干物、酢の物、吸物などの食べ物を腹一杯食べたら、着物を着て、履物を履いて、暑ければ頭に被り物をかぶって、寒ければ首に巻き物を巻いて、熱中症にならないよう飲み物を用意し、読み物、書き物、摺り物、あるいは贈り物などの持ち物を忘れずに、乗物に乗って町に買い物に出かけると、そこには食べ物屋、果物屋、乾物屋、瀬戸物屋、金物屋、荒物屋、塗物屋、染物屋、小間物屋、袋物屋、刃物屋、履物屋などの建物が、あるいは箱物と呼ばれて評判芳しくない豪華な文化施設などが建ち並んでいて、なるほど町はものだらけだ。向こうから物の怪だってやってくるかもしれない。
工務店を名乗ってはいても、竹中工務店が建築会社であることは誰も疑わない。それ以前に、この会社で働く人もこのギャラリーにやって来る人も、「建築」という言葉を疑わないだろう。
architectureは明治の初めには「造家(ぞうか)」と訳された。間もなく「建築」に取って代わられ、この言葉は抽象度を高めた。実際の作業も、大工が家を建てるレベルを超えて、複雑で規模の大きなものになった。設計も施工もそれぞれが細分化され、分業化され、それが「建てもの」であるという物質感を失ってきたのではないか。工務店という名乗りには、ものづくりという原点を忘れないという姿勢を感じる。
近くても遠い場所へ
たまたま住みついた神戸の西の端、塩屋という町でだんだんと馴染んできた変哲もない風景を写真に撮り、葉書に焼いて「シオヤライフ」と称し、友人たちに勝手に送りつけた。葉書とはいかにもアナログだが、今も愛用している。瞬時のデータ通信よりも一枚の紙切れが実際に届くことに感動する。それから、兵庫県立近代美術館友の会で「建築見学会」を始め、東京に移ってからは、文化資源学会で「遠足」を一〇〇回達成を目標に立ち上げ、ギャラリーエークワッドでは「一〇〇人の◯◯」展に関わってここに至った。「遠くに行きたい」に対して「近くに行きたい」、「上を向いて歩こう」に対して「下を向いて歩こう」と、どこまでも天邪鬼だ。
なおこぼれ落ちているもの
「文化資源学」という看板を掲げて新たな研究室が二〇〇〇年にスタートした時、新造語といってもよいこの言葉を、しばしばゴミにたとえて説明した。すなわち、ゴミと資源ゴミがある。誰かがゴミとして捨てたものも、まだ使えると考える別の誰かが拾い上げればゴミではなくなる。文化資源学は、気づかれないもの、見捨てられたものにも新たな価値の発見と活用を求めるのだと。ほぼ二〇年が過ぎて「文化資源」は各所(とりわけ文化行政)で使われるようになり、他方、「資源ゴミ」は死語になりつつある。ゴミを資源と認めた瞬間に、それはすでにゴミではないということに気づいたからだろう。そう考えると、各地のゴミ分類も味わい深い。
4の字を嫌う駐車場があることはずいぶんと前から気になっていたが、それに地域差があるのかどうかわからなかった。時代差はあるだろう。年々減っているからだ。北陸でよく見かけるので、さすが仏教王国と思ったが、最近になって兵庫県芦屋市でもつぎつぎと発見、「3、3A、5」という新種まで見つかり、また振り出しに戻ってしまった。わかったからといって、だから何だ、といわれればそれまでだが、もう駐車場を素通りできない身体になっている。
美術館で絵を見ることと動物園で動物を見ることとがそれほど違った行為ではないと気づくのには、美術館からいったん離れる必要があった。実は両者は密接な関係にあり、その証拠は上野動物園が博物館(現在の東京国立博物館)の付属施設として開園したことだ。それは明治一五年(一八八二)だから、日本の動物園はすでに一四〇年近い歴史を歩んでいる。野生動物を都市の中に囲い込むという奇妙な施設である。こうして動物園に動物園を見に行く「巡礼」が始まった。
第一巻『美術という見世物』のもとになった展覧会「日本美術の十九世紀」(一九九〇)を企画した時から、日本では油絵がどこに飾られたかが気になり、「日本建築の中の油絵」というコーナーを設けて、借りてきた明治の油絵をお座敷に掛けた。木と紙でできた日本の建物に、油絵のような重い絵を掛ける場所はなく、鴨居の上が居場所となった。それから百余年の時が流れ、さて、油絵は日本社会に居場所を見つけることができたのだろうか。
がけっぷちの部屋
神戸から東京、美術館から大学に移り、職場では研究室を与えられたが、家では自分の部屋を失った。子どもたちに部屋を奪われたからだ。食卓で仕事をする時代が長く続いた。そんなあるようでないような部屋を「百物館」と呼んだ。幕末のある日本人が渡米して目にしたミュージアムを呼んだ言葉だ。それから「がけっぷちの部屋」に変わった。漫画「スラムダンク」の部室の標語が気に入り、書き初めをする小学生の娘に「がけっぷち」と書いてもらった。それを仕事部屋に掲げて今日に至った。学生が集まって宴会をする時には、それぞれが「がけっぷち」を掲げて騒いで、ほとんど自暴自棄の光景がしばしば出現した。病院に入れば、今度はそこががけっぷちの部屋になる。
博士の肖像と博士ではない人の肖像
博士の肖像展図録
櫛谷夏帆〈木下直之像〉 2014年
東京大学本郷キャンパスに存在する肖像画と肖像彫刻に光をあてた展覧会「博士の肖像」(一九九八)が東京大学での最初の仕事だった。美術館から博物館に職場を変えたからには、それら肖像を「美術作品」という言葉で語らないことを肝に銘じた。肖像とはある人物の身代わりである。それが生み出される前提は本人の不在で、不在の極みは死である。この肖像はある女子学生が私の還暦を記念して筆をふるってくれたものだから、肖像の近くを本人がまだうろちょろしている。しばらくの間、学生たちのたまり場に置いておいたら、「気味が悪いので何とかしてくれ」という無言の声が寄せられ、研究室に引っ込めた。この展覧会ではじめて大学の外に出た。展覧会閉幕後の行方はわからない。家人からは、家には連れて帰るなと固く言われている。