Ⅲ  都市とモニュメント都市を飾ることは銅像の建設から始まった。東京はすぐに銅像だらけになった。

銅像時代

東京日日新聞 明治7年(1874)1月4日

東京日日新聞 明治7年(1874)1月4日  第572号 

湊川神社

湊川神社 (兵庫県神戸市) 

楠木正成像

楠木正成像 (皇居外苑) 

大村益次郎像

大村益次郎像 (靖国神社) 

西郷隆盛像

西郷隆盛像 (上野公園) 

明治七年(一八七四)正月の「東京日日新聞」が、偉人を顕彰するには欧米に倣い、神社を建立するよりも銅像を建てた方が安上がりだという意見を紹介している。その二年前、神戸に楠木正成を祀る湊川神社が創建され、二八年後の明治三三年に皇居前広場に楠木の騎馬像が建設されたことは、日本にも「銅像時代」が到来したことを物語っている。高村光雲が留学から帰国した息子光太郎に「銅像会社」の共同経営を持ちかけたのもこのころだし、ロダンに学んだ荻原守衛が東京は「木偶の如き銅像」だらけになってしまうと危惧したのもこのころのことだった。しかし、東京に限らず、日本中が銅像で埋め尽くされてしまう様子は、会場に展示した写真集『偉人の俤おもかげ』(一九二八)に明らかだ。

着流しの西郷さん

会場写真

会場写真

The 銅像

二〇一八年の大河ドラマでNHKは盛んに「西郷(せご)どん」と呼ばせようとしたが、東京では「西郷(さいごう)さん」で親しまれてきた。上野公園に立つ着流し姿の銅像は世にも珍しい。なぜなら、銅像とはある人物の功績を讃えるためのものであり、社会的な地位にふさわしい正装で建てられるからだ。その軽装ゆえに西郷さんは愛された。近年までは間違いなく東京の名所であり、東京土産として西郷像の置物が売られていた。それが東京では姿を消し、さすがに鹿児島ではまだ売られているが、固い置物は嫌われ、やわらかくてデフォルメされた西郷像、あるいは携帯可能な西郷像へと進化した。

騎馬像の退場

萩市中央公園

萩市中央公園

顕彰に価する人物が銅像になるのだから、軍人が羽振りを利かせた時代には軍人の像が建つようになる。とりわけ重要な軍人が騎馬像で表現されたことは、武士の肖像の伝統に適っていた。敗戦をはさんで彼らは失脚する。軍隊は解体され、戦争にまつわる一切が否定されたからだ。国会議事堂前にあった山県有朋像はその場所を追われ、上野公園、さらに井の頭自然文化園へと居場所を移し、そこにも止まることができず、故郷の萩へと引き取られて行った。

駅前彫刻

錦糸町駅前

錦糸町駅前

鉄道の時代、駅前広場は間違いなくその町の玄関だった。玄関の下駄箱の上あたりにちょっとした置物などが飾られるように、広場にも、その町にふさわしいちょっとしたものが設置された。やがてそこに抽象彫刻が進出する。車社会の到来は、車と駅との接続を強く求め、駅前広場の構造を変えた。ロータリーが整備され、何かを置くべきスペースが生まれた。新しい駅舎に抽象彫刻は相性がよいと思われた。一方で、その町が生んだ歴史的人物をそこに引っ張り出すケースも多い。こうした駅前の変貌の一切を視野に入れるためには、「駅前彫刻」というざっくりとした網が有効だった。

小便小僧が元気だった時代

久留米市

久留米市

小便小僧の話と『裸の王様』の話がだぶってしまい、「王様は裸だ」と指摘した少年が王様の前で平気で立ち小便をする姿が浮かんでくるのだが、もちろん、ふたりは別の少年である。小便小僧は駅と相性がいい。その理由は小田原駅の小便小僧が明確に語っていた。彼によれば、自分(小便小僧)は平和の象徴である。ようやく堂々と自分の意見が言える(小便を出せる)時代がやってきた。そうした明るい社会、公共の場の象徴が駅だ。少なくとも、敗戦から間もないころの駅は、都市の中でも格段に公共性の高い場所だった。だから、自分たちは駅でオシッコをしているのだと(そこまでは言っていないが)。

片隅アート

横浜市

横浜市

銅像を別にすれば、彫刻を屋外に展示し、自然の光の中で眺めようとする動きは、戦後に顕著となった。公園で野外彫刻展が開かれ、ヌード彫刻が駅前に出現し、抽象彫刻やモニュメントがそのあとを襲い、ビルの敷地の一隅が彫刻のために提供され、宇部や神戸を皮切りに屋外彫刻コンクールが開かれ、彫刻のある町づくりが各地で展開した。そして時が流れ、はっと気づくと、彫刻だらけになってしまった町や、町の片隅で誰からも気づかれない彫刻がある。

わたしの城下町

左:浜松こども博覧会・天守 右:元城小学校集合写真

左:浜松こども博覧会・天守 浜松市立図書館 
右:元城小学校集合写真

浜松城内にあった元城小学校に通った私には、お城が遊び場だった。それが昭和三三年(一九五八)に建てられた「築数年」、ほとんど「新築」という新しいお城だったと気づいたのは、かなり大きくなってからだ。さらにずっとあと、鉄筋コンクリート造のそのお城よりも八年前に、浜松こども博覧会が開かれた時に、木造の小さな天守が建てられたことを知って驚いた。板に描いた石垣だった。その衝撃から『わたしの城下町』という本が生まれた。

お城が欲しい

松前城

松前城(北海道松前郡)

明治維新、つづく廃藩置県によって、城は無用の長物と化した。天守は外から見上げるためだけのものだから、とりわけ邪魔になった。多くの城で天守が取り壊され、あるいは売りに出された。買い手さえつかない場合もあった。それからおよそ八〇年後、一九五〇年代になって全国各地で天守がつぎつぎと再建された。戦災からの復興という潮流に乗ったからだ。なるほど、城下町の構造は変わらず、中心に天守が再び姿を現せば、復興のこれほどの証はない。多くが鉄筋コンクリート造であることには、もう二度と焼かれまいという思いも込められていた。

尾張名古屋は城でもつ

パース 軸組イメージ図(北東より)

パース 軸組イメージ図(北東より) 名古屋城総合事務所提供  株式会社竹中工務店制作 

明治を迎えた後、名古屋城はいったん陸軍の管轄下に置かれ荒廃したが、 明治天皇の離宮になったため大切に守られ、昭和五年(一九三〇)には、城郭建築として最初の国宝に指定された。しかしその一五年後に、米軍の空襲によって灰燼(かいじん)に帰した。昭和三四年(一九五九)に鉄筋コンクリート造で天守が再建されたあとは多くの観光客を集めてきたが、近年はその耐震性が問われることになった。加えて史跡整備という追い風が吹き、木造による再建がまず御殿で実現した。これから天守の建て替えが始まろうとしている。その設計施工を竹中工務店が担う。究極のバリアたる城にバリアフリーをどう折り合わせるのかという難題が待っている。

鉄筋コンクリート造で再建された天守

鉄筋コンクリート造で再建された天守

炎上する名古屋城

炎上する名古屋城 撮影:岩田一郎  名古屋城総合事務所提供 

焼失前の天守と本丸御殿

焼失前の天守と本丸御殿(本丸敷地内建造物(焼失)俯瞰) 名古屋城総合事務所提供