作品辞典
井原通夫〈作品〉 1970年
さくひん【作品】(名)作ったもの。製作物。特に、絵画や彫刻、詩歌や小説などの芸術上の製作物をさしていう。*風流魔(一八九八)〈幸田露伴〉七「かりに今すぐれたる技倆ある人の出でて其人の作品と後藤氏の祖先等の作品と比べて」*青年(一九一〇‒一一)〈森鷗外〉二三「次いで話は作品の上に及んで、『蒲団』がどうの、『煤煙』がどうのと云ふことになる。」(『日本国語大辞典』)。さくひん【作品】心をこめて制作したもの(狭義では、文芸・美術・工芸など芸術上の制作物を指す)(『新明解国語辞典』第五版)。さくもつ【作物】(名)①農作物、工芸品などのように、自然、人工の過程を経て作られて、人の日常の便に用いられるもの。さくもの。さくぶつ。②掘り取った鉱物から作ったもの。③特に、絵画、彫刻、詩歌、小説など何らかの表現意図をもって創作された、いわゆる芸術作品。さくぶつ。*暗夜行路(一九二一‒三七)〈志賀直哉〉二・六「屹度それがお前の作物」(『日本国語大辞典』)。
油絵茶屋の時代
五姓田芳柳・義松〈西洋油画〉見世物引札 吉德資料室所蔵
明治九年(一八七六)春の浅草寺開帳に当て込んで、本堂裏手の「奥山」で、下岡蓮杖(しもおかれんじょう)が主催した油絵の見世物。茶屋を会場にしたため、「油絵茶屋」と呼ばれて評判になった。蓮杖はもっぱら横浜の写真師として知られるが、新しもの好きで(だから写真術を身につけた)、当時は浅草で覗き眼鏡などの見世物を行っていた。「函館戦争図」と「台湾戦争図」が油絵茶屋の目玉で、油絵による六曲一双屏風といってもよい大きさだった。いずれも靖国神社遊就館(ゆうしゅうかん)に現存する。同じく横浜から浅草に移り住んだ五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)・義松(よしまつ)親子が「西洋画工」を名乗って開いた油絵の見世物も知られる。明治七年にやはり奥山で開かれた時の引札の口上によれば、芳柳は「絹地画」による役者絵、義松は「油画」による肖像画を見せ、ふたりの作風は大きく異なる。明治八年の興行では、市井の殺人事件をネタにした油絵も展示した。浅草がこうした新しい美術の生まれてくる場所だった。
下岡蓮杖〈函館戦争図〉 明治9年(1878)靖国神社遊就館所蔵
下岡蓮杖〈台湾戦争図〉 明治9年(1878)靖国神社遊就館所蔵
絵馬は絵なのか馬なのか
伊香保神社絵馬
絵馬の歴史をひもとけば、最初は生きた馬を奉納したとある。それが彫像の馬、さらに絵に描いた馬へと変化したと説明されるが、実際には馬以外のものが多く描かれている。そして、さまざまなものが貼り付けてあり、絵というよりは彫刻、立体的な造形物である。絵馬を掛ける絵馬堂は、間違いなく美術館の機能を果たした。絵馬が評判になると、そこに絵師の腕前を見に行った。とはいえ、美術館は壁を持ち、建物の内側に美術作品を展示するのに対し、絵馬堂には壁がなく、建物の外側にも平気で絵馬を展示する点が決定的に異なっている。なぜ絵馬堂の掲げられた絵馬は雨ざらしで構わないのか。答えは簡単、絵馬は神仏に捧げられたものであり、人間相手は二の次だからだ。
芸術作品
木下直之〈少年〉1969年 百物館所蔵
〈つくりもの辞典〉と〈作品辞典〉を比べれば一目瞭然、「つくりもの」は古く、「作品」は新しい。『日本国語大辞典』が伝える初出によれば、それぞれ一四世紀前半と一九世紀末で、少なくとも四世紀半の開きがある。それほど新しい言葉である「作品」が、二〇世紀に入ると忽ちのうちに広がり、日本社会のすみずみにまで行き渡り、「作品」を守るための展示室と収蔵庫を備えた美術館を各地に建てさせた。一九八〇年代に美術館学芸員となった私が、キャリアを重ねるにつれ、どんどんと馴染めなくなった言葉である。そんな人間になるとは夢にも知らない私が高校生のころに取り組んでいた「芸術作品」がただ一点残っている。
石像楽圃
鼠屋伝吉〈石像楽圃〉見世物引札より 吉德資料室所蔵
日本橋の人形師鼠屋伝吉(ねずみやでんきち)には渡欧経験があった。明治六年(一八七三)に開かれたウィーン万国博覧会に、「物品陳列」担当の職人として参加したからだ。帰国後、浅草奥山の見世物「百工競精場」で、ウィーンで目にした都市風景を得意の人形で表現して見せた。「石像楽圃)(せきぞうらくほ)」と題されたそれは日本における屋外彫刻の未来像だった。ほぼ二〇年後にそれは実現する。金沢兼六園のヤマトタケル像、靖国神社の大村益次郎像、上野公園の西郷隆盛像、皇居前広場の楠木正成像、横浜掃部(かもん)山の井伊直弼像などがつぎつぎと登場し、都市を飾ることになる。