岡部 三知代
ギャラリー エー クワッド 主任学芸員 / 副館長
前髪を横分けに留めた女の子、庭先のつる薔薇の棚、赤ニットの手袋やお帽子。いわさきちひろの絵は、幼少の頃の原風景と重なり、知らず知らずに絵本の中に自分が入り込むような感覚を覚える。幾層もの色の重なりが、深さと奥行きをもたらし、頁を超えた空間の広がりを感じる。ある時から、ちひろは、幼子を描いているのではなく、彼らが佇む空間を描いているのだ、と思うようになった。とても建築的だと…。
練馬区下石神井にあるちひろ美術館・東京は、ちひろが22年間を過ごした自宅兼アトリエ跡に建っている。ちひろは、1952年に広い庭を持つ平屋の家をこの地に建てた。その家は、家族が増えるごとに増築*1を重ね、ちひろの終の棲家となった。作品のほとんどはこの家で描かれた。仕事と子育てに忙しくしながらも庭の手入れをこまめにして、草花や樹々を育てたので、どの窓からも青葉若葉が楽しめた。ちひろにとって、生活空間は仕事場であり、日々の暮らしが絵になった。仕事が軌道に乗り、多忙な日々を送るちひろは、ゆっくりと過ごせる静かな時間と空間を必要とし、黒姫高原の山荘の設計を奥村まことに依頼した。
奥村まことは、吉村順三に学んだハイセンスな設計作法を芯に据えつつ、生活から離れることなく機能や合理性を重視した良質な住空間の設計を心掛ける女性建築家の草分けであった。まことは、「働く母の会」を通じてちひろと知り合う。仕事も子育てもどちらも犠牲にすることなく、生活と仕事の両方を分けずに全力で取り組む二人は、すぐにも意気投合した。
ちひろとまこと、二人の共通点は、反体制(Rock)ということだろう。ちひろが26歳、まことは14歳の時に戦争が終わった。これまで信じていた憲法や教科書を、全部墨で塗りつぶした世代だ。全てがリセットされた時、二人は同じスタートラインに立った。一人一人が、自分の場所に、自分の意志で立つことを目指し、お互いの平等ということを大切にした。
二人は、社会に働きかけることも忘れなかった。ちひろは、すべてが失われてしまう戦争の経験から、子どもたちの幸せと平和の継続を願い、絵にその想いを託した。まことも、要らないものは要らないが、要るものは要る…と、建築の建替えへの疑問などをユーモアを通じて発信した。そこに、共に生き、より良い未来を願う同時代の共感があった。
ちひろは、1974年に亡くなる直前まで、まことに新たに設計を依頼した*2伊豆の熱川に計画した海の見えるアトリエの完成を楽しみにしていた。黒姫山荘の全面に開放する大きな引き戸の窓は、ちひろの願いどおり、内と外が自由に交流し、季節の移り変わりを室内に反映している。また必要なものだけで構成された簡素で清楚な平面は、まことが終生おやじと慕い尊敬した吉村順三の設計理念「誠実」そのものである。その真髄は、確かにまことを通してちひろの家に受け継がれている。そこに学び舎の尊さを知る。
*1 1970年の増築は奥村まことが設計している
*2 担当は所員の後藤京子(旧姓:和田)