森田 真生
独立研究者
モノを掴み、口に咥える。落とし、投げる。潰し、崩す。破り、叩く。幼子は、未知の物理法則を確かめようとするかのように、夢中になってモノと戯れる。
牛乳がこぼれる。コップが割れる。服が泥だらけになる。幼子の遊戯は、宇宙の不可避の運命を、何度も予告するかのように、目前の小さな秩序を、無秩序へと解体していく。
現代の物理学が明らかにしているところによれば、熱力学の第二法則と呼ばれる普遍的な法則に従い、宇宙はひたすら無秩序に向かって突き進んでいるという。子どもの散らかした部屋のように、太陽系も、銀河も、やがては宇宙のすべてがバラバラになり、もともとあった姿は、跡形もなくなっていくのだ。
だが、幼子はある日、構築を始める。積み木を崩す代わりに、積み上げる。食べ物を落とす代わりに、調理を始める。紙を破くのではなく絵を描く。「制作」を始めるのだ。
衣服を編む、家が建つ、都市を建設し、物語が紡がれていく。人間は制作熱のひときわ強い動物である。いまや地球表面で、人間の制作の跡が見られない場所はほとんどないくらいである。
だが、制作するのは人間だけではない。大陸が移動し、山脈が形成される。火山が噴火し、生命が上陸する。人間に先立ち、アリが、キノコが、風や大地そのものが、たゆまず制作に邁進してきた。
恒星や惑星、太陽系や銀河そのものでさえ、無秩序に向かう宇宙の流れに逆らう制作の意思を感じさせる。宇宙は無秩序へと向かう途上で、多様な秩序を生み出していく。恒星には膨大なエネルギーと秩序が集中している。そうした局所的な秩序は、長い目で見ると、宇宙を無秩序へ向かわせる流れを加速させていると考えられている。
物理学者のブライアン・グリーンは著書『時間の終わりまで』のなかで、宇宙の遠い未来を描写しながら、現在の私たちは「宇宙の年表上に現れた小さなオアシスに棲息している」のだと語る。恒星や惑星や思考する者が存在できるのは、宇宙の歴史のなかの束の間の出来事かもしれないのである。
朝、光とともに目覚める。眩しい光が目に飛び込んでくる。「光」とは、人間が視覚を通して感じる電磁波のことである。そもそも人間の視覚は、人肌の繊細な変化を捉えることを最も得意としている。この目に、電磁波の大部分は見えない。それでも人間の目は、光を多様な色として感受する。光の風景とは、人間と、宇宙を飛び交う電磁波との、共同制作物である。
万物がたがいに作りあう、巨大な制作の網のなかで、人間と光が、共に踊っている。制作の熱が漲る宇宙の片隅で、いまだかつて誰も見たことのなかったものが、新たに生まれようとしている。
*翻訳テキストにおいて、制作をFormingと訳す際に、上妻世海著『制作へ』を参照した