松本 透
長野県立美術館 館長
千田泰広の作品には、日常の意識にはのぼらない光の存在を点や線のかたちで可視化するものが多く、ときには円や正方形などモダンアートのエンブレームのような図形が登場することすらある。しかし、それらはいつも、どこか定型的なアートらしさには収まり切れない野性味のようなものをおびている。わたしたちは千田が生け捕りにした光の不思議さ、面白さに目を奪われて、束の間であれ美術史の文脈の外へと連れ出されてしまうのだ。アートの喜ばしい姿ともいえよう。
まっくらな空間にテグス糸を張り、ひとすじの光を当てると、光は光源と、糸と、眼をむすぶ最短距離で反射してわたしたちの眼に射しこむ。その反射点が針の先ほどの光の点となって輝くのだという。もちろん光はテグス全体にくまなく当たっている。しかしわたしの眼に到達しない光は、わたしにとっては存在しないに等しい。だから反射点の光しか見えない。――小学生でも分かる理屈だが、なんだか狐につままれたような話だ。
さて、となれば、テグスを1000本張りめぐらして小さなLEDから光を照射すれば、暗闇のなかに1000個の微細な光が浮かぶことになる。しかもこの仕組みを用いた千田の《ミュルクヴィズ》では、光源じたいが円軌道を描いてゆっくり旋回しているから、無数の光はてんでばらばらに、しかしどこか整然と、生きもののように運行していく。
《ミュルクヴィズ》とは、北欧神話などに登場する黒い森とか暗い森のことだという。
千田の黒い森が星を散りばめた夜空と違うのは、かれの装置では、手を伸ばせばそこに在る、身体の延長線上の奥行空間のなかで、光の饗宴が繰り広げられることであろう。しかも少し身体を動かせば分かるように、その光景はある瞬間、ある地点に立つわたしだけのものだ。すぐ傍らに立つ人は、まったく別の星雲を、あるいは木漏れ日を見ているだろう。宇宙的な孤独とも、それは違う。むしろ無数の光と私信か密約を交わすかのように、わたしは光を介して、眼の前の世界とこの世でもっとも親密かつ強固なきずなを結んでいるのだ。
天井から小さなLEDの光源が吊り下げられている。コードを伝って降りてきた水滴がLEDの表面をおおい、レンズ/プリズムの役割を果たしている。溜まっては落ちていく水のしずくを透過した光が、床面に雲のような、雪の跡のような環を描き、壁面にうっすらと色彩の帯を作っては、消えていく。――重力と、表面張力と、光の屈折・分光が作り出すこの作品《0.04》を、千田は光の「鹿威し(ししおどし)」と呼ぶ。タイトルの《0.04》は水滴1粒の体積であるという。
何年か前にこの作品を初めて観たときのことは忘れがたい。水の薄膜をとおして成長と消滅をくりかえす光の文様を見ているうちに、軽いパニックに襲われたからだ。《0.04》の光源が水の膜でおおわれているように、わたしたちの角膜の表面は涙の層でおおわれている。水の膜をとおして光を送る光源と、涙の膜をとおして外界の光を受け取るわたしたちの眼……。像をむすぶ光と、むすばない光が入り乱れた《0.04》のなかで、ふいに、眼球の内側に入り込んでしまったような混乱にみまわれたのである。わたしたちはいつも水をとおして世界を見ている。それがわたしたちの視野だ。わたしたちは、その外の景色を見たことがない……