3

義足の歩み

ものづくりと社会の歴史

日本の義足の歴史に目を向けると、大きな転機となったのは戦争です。多数の傷病者による義足の必要から、義足製作の技術や制度などが整えられてきました。また戦後には戦傷者のリハビリから1964年のパラリンピックに至るまで、スポーツを通して徐々に義足ユーザーと社会とのつながりが生まれてきました。

文・監修/ 木下直之

義足の国産化

日本の義足の歴史は歌舞伎役者三世澤村田之助から語られてきた。1867年(慶応3)に病気で右足を失った田之助は当代一の人気女形であり、その退場が惜しまれたが、アメリカから取り寄せた義足を装着することで再び舞台に立った。おそらく、それは義足の装着が日本で初めて可視化された出来事だった。
輸入品は高価だったため、国産化が求められた。1877年(明治10)の西南戦争が転機となった。博愛社(のちの日本赤十字社)が生まれ、敵味方を問わない負傷兵への救護活動が始まり、義肢の需要を高めることになる。同じ1877年に東京大学医学部が本郷に創設されると、大学周辺に医療器械業者が店を構え、それは今日にまで及んでいる。
東京では万木九兵衛の万木義肢製造所、石代重兵衛の遠州屋、いわしや松本器械店、鈴木祐一の日本義手足製造株式会社などが、関西では大阪の奥村済世館、京都の小柳六之輔らが義肢製造事業を展開し、技術開発を競い合った。

歌川広重(三代)「フランス之名医足病療治」
『横浜浮世絵』展図録
神奈川県立歴史博物館、2019年

鈴木祐一『義手足纂論』
南江堂書店、1902年
しょうけい館提供

岡本起泉作・揚洲周延画『澤村田之助曙草紙』第5編
島鮮堂、1880年、早稲田大学図書館所蔵

荻原一羊『義手足の話』
(掲載広告)、足利三郎
1904年、国立国会図書館
デジタルコレクション提供

万木九兵衛編『義手足図解』万木義肢製造所、1913年
国立国会図書館デジタルコレクション提供

戦争と義足

皮肉なことに、殺し合いである戦争が人命を救う医学を進歩させた。日本では、これを軍陣医学と呼んだ。新たな武器である銃や爆弾がもたらす新たなタイプの被害は、病気とはまったく異なるものだったからだ。
身体の欠損を補う義手・義足・義眼などが開発されるとともに、それらが皇后から与えられる「恩賜(おんし)の義肢」が制度化された。戦場で負傷した将兵に皇后が義肢を授けて顕彰することを可視化したものが『義手足拝受者写真帖』にほかならない。
戦傷者は、時代とともに廃兵、傷兵、傷痍軍人と名を変えた。しかし、敗戦によって境遇は一転した。生活苦から、病院着である白衣をまとい、ことさらに義肢を見せて街頭募金をする者が続出した。

五姓田芳柳「大阪臨時陸軍病院御慰問図」靖國神社遊就館蔵

石井柏亭「広島予備病院行啓」、1929年
聖徳記念絵画館蔵(絵葉書)

「義肢義眼恩賜の件」JACAR(アジア歴史資料センター)
Ref.C03025565300、明治37年「4月自1日〜至15日」
(防衛省防衛研究所 戦史研究センター所蔵)

『明治三十七八年戦役義手足拝受者写真帖』
第三師団、靖國神社遊就館蔵

『明治三十七八年戦役義手足拝受者写真帖』
第五師団、靖國神社遊就館蔵

『明治三十七八年戦役義手足拝受者写真帖』
第十一師団、靖國神社遊就館蔵

恩賜の義足桐箱
しょうけい館提供

『日傷月刊』 1954年2月20日

白衣募金者、しょうけい館提供

スポーツと義足

戦前において、傷痍軍人の機能回復訓練と慰安娯楽を目的に開かれた運動会に、すでに障害者スポーツの萌芽が見られたが、日本社会に障害者スポーツが受け入れられたわけではなかった。
第2次世界大戦が終わると、1948年のオリンピックロンドン大会開会式に合わせて、第1回ストークマンデビル競技大会が開かれた。大戦中に英国のストークマンデビル病院に開設された脊髄損傷センターの医師グットマンの提唱によるものだった。初回は車椅子選手16人によるアーチェリー大会であったが、回を重ねるにつれ規模が大きくなり、国際大会となり、これがパラリンピックへと発展した。
同じく大戦後に、アメリカの退役傷痍軍人会を中心に組織された世界歴戦者同盟は、スポーツを活動のひとつの柱とした。1956年に日本傷痍軍人会が加盟した。日本代表理事を務めた沖野亦男(またお)は国立身体障害者更生指導所所長であり、早くも1961年に稗田(ひえだ)正虎との共著『身体障害者スポーツ』を出版している。同じころ、国立別府病院の医師中村裕(ゆたか)がストークマンデビル病院を訪問し、障害者スポーツの重要性を知った。帰国後は精力的な活動を展開し、1964年のパラリンピック東京大会の実現に貢献した。

右上:『傷兵慰問体育運動大会』大日本体育協会 1939年(同年3月19日に陸軍戸山学校運動場で開催) しょうけい館提供
右下:保利清『義肢に血の通ふまで』 汎洋社、1943年 個人蔵
左上:パラリンピック東京大会公式ポスター 1964年、デザイン 高橋春人、昭和館提供
左下:パラリンピック東京大会開会式写真 選手宣誓(青野繁夫) (公財)日本パラスポーツ協会提供

カスタマイゼーション

身体の一部を失った人の切断面はさまざまであり、かつ年齢を重ねるにつれて変化するため、義肢はひとりひとりに応じて作られる。必然的にカスタマイゼーションが求められるのだ。さらに、その人の暮らしに応じて、義肢は工夫され、改良が加わる。義肢とは、身体の欠損部を単に物理的に補う道具ではなく、その人の生き方を支え、さらに方向づけるものである。
1950年代の製造とされる農耕用義足が実用を目的に製造されたことは明らかだ。義足の先は、人の足のかたちではなく、むしろ馬や牛の蹄を思わせるデザインになっている。田や畑での耕作を最優先するのであれば、蹄はより合理的なかたちだったのだろう。人間の足のかたちにこだわらない、機能本位のスポーツ用義足につながる発想だ。
他方に、装飾用義肢がある。本物の手や足に見えれば良いとするもので、とりわけ義手にその考え方が適用された。握る、つまむ、はらうなど、足に比べて手指の機能ははるかに複雑であり、それを義手で代替することは容易ではない。その意味で、義足よりもより装飾性が高かった。乃木式義手は喫煙を目的に開発されたという点で特異な例であるが、医療の現場からではなく、陸軍大将乃木希典の発案であり、したがって実用性に欠け、将軍が戦傷者を労る行為の象徴的な存在にとどまったとされる。いわゆる「恩賜の煙草」のその先に登場した。

大腿義足 農作業用
1950年頃、鉄道弘済会
義肢装具サポートセンター所蔵

「乃木式義手」(レプリカ)しょうけい館提供

正座用足部
1950年頃、鉄道弘済会
義肢装具サポートセンター所蔵