木下 直之
静岡県立美術館館長、神奈川大学特任教授
義足をつけて「立つ、歩く、走る」歴史を振り返ると、「立つ」と「歩く」の間の時間的な距離は短く、いや、最初の一歩を踏み出すことはほぼ同時に行われたのに対して、「歩く」から「走る」までには長い時間が必要だった。横浜の宣教師にして医者のヘボン(James Curtis Hepburn)が、歌舞伎役者三世澤村田之助の右足に義足をつけたのが1868年、鉄道弘済会 義肢装具サポートセンターの義肢装具士臼井二美男が、義足装着者の背中をポンと押して走らせたのが1990年ごろである。およそ120年の隔たりがある。
田之助の舞台復帰を可能にした義足はアメリカ製であった。アメリカにおける義足の製造は南北戦争(1861-65年)で弾みがついた。いうまでもなく、戦争が需要を生み出したからだ。日本でも同様に歴史が展開した。西南戦争(1877年)に始まり、日清戦争(1894-95年)・日露戦争(1904-05年)と続く過程で、義肢の国産化が進んだ。そして、皇后から義肢が与えられる「恩賜(おんし)」の制度が生まれた。戦場で手足を失った傷兵は義肢をつけた姿で撮影され、写真帖が皇后に献上された。そこでは、誰もが元の身体を取り戻したかのように見えた。
1945年の敗戦によって、「白衣(びゃくえ)の勇士」と称えられた傷痍(しょうい)軍人の境遇は一変する。生活に窮し、病院着である白衣を身につけて街頭に立ち、募金する者が現れた。ニセモノが多く含まれていたことから、日本傷痍軍人会はこれを「白衣募金者」と呼んで嫌い、一掃運動に乗り出す。なかなか成果は上がらず、とうとう1964年のオリンピック東京大会までの撲滅を目標に掲げた。同時に開催されたパラリンピックとそれに続く身体障害者スポーツ大会には何人もの傷痍軍人が出場したことを考えると、1964年は義肢装着者がスポーツを通して社会に進出する転機の年だった。
可視化という観点から義足の歴史を振り返ることが、現代の状況のよりよい理解につながる。いま、最先端の義足はスポーツの世界にある。パラアスリートの活躍に勇気づけられて、一般の義足装着者も義足を堂々と見せるようになった。メディアもその様子を盛んに報じる。義足に装飾が施されることで、義足を目にする機会はさらに増えた。しかし、ここで振り返る戦争の時代も、実は義足が積極的に可視化されていたのである。ただし、義足を見せることを望んだのは国家であり、軍であり、現代では、それが装着者自身の明確な意思である点が決定的に異なっている。