東京はどこにある?
静岡県立美術館 館長 木下 直之

100+20人で東京の「北」を撮ろうと声をかけられ、なんとなく23区の北半分を思い浮かべたが、撮影範囲の地図に示された横に長く伸びた東京を見てびっくりした。北区は東の端に近いし、西東京市でさえ東側にある。わずかに地下鉄南北線が、その名に違わず、王子と目黒を南北に結んでいるばかりだ。

東京といっても、23区ではなく東京都のことなのだ。それを南北に分けて、その北側を写真に撮ることに、さてどれほどの意味があるのだろうか。この疑問に対するギャラリーエークワッドからの答えは実にシンプルで、2年にわたる企画ゆえに単に北と南に分けたにすぎない。来年は南を撮ろう。あくまでも便宜的な区分であって他意はない。

ほとんどの人が東京を南北に分けて考えることはないだろう。これが東京ではなく江戸となると話はがらりと変わる。お城を中心としたこの都市の治安は、北と南に置かれた町奉行によって管理された。北町奉行所は現在の呉服橋交差点あたりに、南町奉行所は現在の有楽町駅あたりにあった。また、寛永寺と増上寺、神田明神と日枝権現が、それぞれに北と南から江戸を守った。鶴屋南北という人だっていた。

東京は江戸の「南北」を無効化し、西へ西へと広がった。日本橋を起点とする五番目の街道として甲州街道が設けられていたが、明治22年(1889)になると甲武鉄道が走り新宿と八王子を結び、今日の中央線へと発展する。奇しくも、ギャラリーから示された地図は、ほぼ中央線の沿線を境に東京を南北に分けていた。

それはかならずしも「便宜的」な区分ではないかもしれない。なぜなら、はじめに地形ありきだからだ。まずは水が低きに流れ、川が生まれる。それを頼りに人が住みつく。集落をつないで道が通り、やがては鉄道も走る。こんなふうに地形に目を転じれば、行政区とは違う東京が見えてくるだろう。川が集まり、海へと注ぐあたりに人が密集し、大都市が生まれたことがよくわかる。江戸=入江の口という名前がその成立事情を語っている。それに比べれば、東京=東都は京都を基準にした名前で、初めから行政的である。

ところで、ギャラリーが撮ろうと呼びかける東京はどこに成立しているのか。呼びかけは少々錯綜している。「東京」を撮ろうと呼びかけたと思えば、「都市」を撮ろう、「まち」を撮ろう、「建築の写真を必ず一枚撮影をお願いいたします」ともいう。それらすべてはイコールで結ばれていない。わたしは「建築」という言葉にさえ違和感を抱き(ひどく抽象的に感じるし、建築家の作品という方向に引っ張られる)、「建物」と呼び換えて接しているぐらいだから、《写ルンです》を片手に町を歩きながら、東京を撮ることは早くに諦めた。どこにカメラ、いやレンズ付きフィルムを向けたところで建物が写ってしまう。そこから建築を選び出すことも放棄した。何を撮ろうと東京が写るんですと開き直ったのだ。

木下 直之 きのした なおゆき

1954 年浜松生まれ。東京芸術大学大学院中退、兵庫県立近代美術館学芸員、東京大学総合研究博物館助教授、同大学院人文社会系研究科教授を経て、2017 年より現職。『わたしの城下町』(筑摩書房)にて2007 年度芸術選奨受賞。2015 年紫綬褒章受章。主な著書に『美術という見世物』(平凡社)、『ハリボテの町』(朝日新聞社)、『股間若衆』(新潮社)、『世の途中から隠されていること』(晶文社)、『せいきの大問題』(新潮社)、『動物園巡礼』(東京大学出版会)などがある。