本郷の大学に通う生活が22年目を迎え、間もなく定年で終止符を打つ。この間に「浅草細見」、「上野細見」、「皇居細見」など、ある土地を徹底的に歩き、眺め、考える、ギャラリーエークワッドの「100人の◯◯」シリーズに通じるような授業を開講してきた。そうはうたわなかったが、10年近く続けた「東京大学探索—埋蔵文化財と文化資源学」も実質的には「本郷細見」だった。
東京大学を細かく見れば、本郷キャンパスの前史である加賀藩邸、富山藩邸、大聖寺藩邸、水戸藩邸が視野に入ってくる。東京大学埋蔵文化財調査室による発掘は30年に及び、その研究成果は、近世の大名屋敷も近代の大学も、この土地をいかに有効に活用するかという営みであったことを明らかにした。
そのすべての前提が本郷台地という地形である。尾根、という感じはしないが、台地の一番高い部分を中山道が通っていた。街道とはそのようなものだ。日本橋を出た東海道が銀座あたりの一番高い土地を選んで通っていると知った時に、なるほどと感心した。それは当たり前の話で、低い土地に流れる水をいかに避けるかが、いつだって大問題だからだ。
東京大学の構内では、安田講堂のあたりからぐんぐんと下がって、不忍池へとつながっている。逆に、白山通りに向かっては、菊坂、胸突坂、新坂といったいくつもの坂道が下ってゆく。ほかにも、金魚坂、炭団坂、鐙坂、無縁坂、暗闇坂など一度聞いたら忘れられない名前の坂が数多くあり、本郷を歩く楽しみは、何よりもこれら坂の上り下りにある。
森鷗外や夏目漱石を読むと、いっそう楽しい。明治の文豪として並び称されるふたりには五歳の年齢差があった。ともに東京大学に学んだが、在学時期が異なり、それぞれが目にした本郷の風景は大きく異なる。鷗外は12歳で神田和泉橋通りの医学校予科に入学、本郷に移ったあと、明治14年(1881)にわずか19歳で医学部を卒業した。「青年」(1910)や「雁」(1911)には、若き日に目にした本郷が描かれている。
一方の漱石は17歳で神田錦町の大学予備門予科に入学、第一高等中学校を経て、明治23年(1890)に帝国大学文科大学英文科に入学した。卒業後、松山、熊本、ロンドン留学を経て、再び帝国大学英文科講師として本郷に戻るのは明治36年(1903)である。「三四郎」(1908)はそのころの本郷を舞台にしている。
本郷三丁目の交差点から大学方面を望むと、本郷通り(かつての中山道)がいったん下がり、すぐにまた上がっているのが見える。昔は、加賀藩邸から流れ出た水がその低い場所を横切り、菊坂に向かって落ちていったという。そこが江戸の境界線のひとつだった。「江戸払い」となった罪人は、ここで江戸を追われた。ゆえに、見送り坂と見返り坂の名が伝わっている。わずかに道がくぼんだだけの変哲もない風景だが、数々の別れがあったに違いない。ふっと、本郷を往来した昔のひとびとの姿が浮かんでくる。
見送り坂、あるいは見返り坂の現在(撮影:木下直之)
東京大学大学院教授・文化資源学
1954年浜松生まれ。東京芸術大学大学院中退、兵庫県立近代美術館学芸員、東京大学総合研究博物館助教授を経て、2004年より現職。『わたしの城下町』(筑摩書房)にて2007年度芸術選奨受賞。2015年紫綬褒章受章。2017年より静岡県立美術館館長。他、主な著書に『美術という見世物』(平凡社)、『ハリボテの町』(朝日新聞社)、『股間若衆』(新潮社)、『世の途中から隠されていること』(晶文社)『せいきの大問題』(新潮社)などがある。