100人100様の日本橋
東京大学大学院教授 木下 直之

久しぶりに「100人の」シリーズが復活した。見も知らぬ100人がある日ある場所に集まり、100人100様に町を歩き、気になる風景をレンズ付きフィルム「写ルンです」(富士フイルムが1986年に発売)で撮る。その何がおもしろいのか、これはやってみないとわからない。久しぶりにそう感じ、楽しみはまだ半分、100人の見た2700の風景(写ルンですは27枚撮れるんです)がギャラリーに一堂に会した時にあと半分の楽しみが待っていると思った。いや、0.5+0.5ではなく1+1、楽しさは少なくとも2倍になる。

日本橋界隈を歩いた日のことをふりかえってみよう。家を出た時から、わたしは「下を向いて歩こう」を自分に課していた。アスファルトにおおわれた町で死んでいった生き物の痕跡を探そうだなんてひねくれたことを考えながら歩き始めてすぐに転向、思ったほど生き物の死骸が見つからなかったこともあるが、それよりも町の片隅に置かれたものが気になり出した。 目の前にあるものが、事前の計画や予測を簡単にくつがえしてくれる。つぎつぎと新しい風景が現れ、そのつど歩く方向が変わる。思考はあとからついてくる。夢遊病者のように、目的地を持たずに、でたらめに歩き回っているように他人からは見えたにちがいない。

それもまた突然に切り替わった。川の淵に出た時、この町が昔は縦横に堀割を廻らせていたことを思い出した。歩き方が逆転して、そこからは地図が頼りになった。配られた地図には「伊勢町堀跡」とか「稲荷堀跡」といった場所が記されていた。伊勢町、稲荷とくれば犬の糞である。いや、正しくは「江戸名物伊勢屋稲荷に犬の糞」、江戸を歩けばいたるところでこの三つに出喰わしたそうだ。

この日歩いたのは江戸の中の江戸、日本橋だったから、伊勢屋を名乗らなくとも伊勢商人の末裔たち(その代表が三井)はまだ商売をつづけているに違いないし、なるほど稲荷なら小さな祠をいたるところで目にした。消えたのは犬の糞ばかり。

これを書きながらもつい歩いているような気分になって、またまた脇道にそれてしまった。「堀跡」に戻ろう。浜町川緑道と呼ばれる細長い緑地帯を蠣殻町のあたりから歩いた。それは久松児童公園で終わるが、この道は堀割の跡であり、幕末の切絵図を見れば堀割は久松町を越えてさらに北に向かう。馬喰町の手前で急に細くなるもののなお続き、竹森神社という稲荷のあたりで西に折れて龍閑川となり日本橋川につながっていた。この跡をたどって歩いた。細い路地をずんずん歩けたのは堀割が暗渠に変わり、相変わらず地下を下水が流れているからだろう。路地は水道局の管理下にあった。

龍閑川が日本橋(旧日本橋区、のちに中央区)と神田(旧神田区、のちに千代田区)の境界線だった。戦後間もなく、戦災の瓦礫処理で川が埋め立てられると両区は地続きになるが、それでも境界線はここに引かれたままだ。地蔵橋公園に竜閑川埋立記念碑が建ち、「この埋立は実に千代田、中央両区の握手であって、神田、日本橋区民の親和を増進するもの」とうたっている。区名は千代田、中央に変わっても、区民の意識は神田、日本橋のままなのだ。

100人100様の町歩きと書いたけれど、ひとりにもいくとおりもの歩き方がある。さらには現在から過去へ、未来へと歩いた人もいたに違いない。

木下 直之 きのした なおゆき

東京大学大学院教授・文化資源学
1954年浜松生まれ。東京芸術大学大学院中退、兵庫県立近代美術館学芸員、東京大学総合研究博物館助教授を経て、2004年より現職。『わたしの城下町』(筑摩書房)にて2007年度芸術選奨受賞。2015年紫綬褒章受章。2017年より静岡県立美術館館長。他、主な著書に『美術という見世物』(平凡社)、『ハリボテの町』(朝日新聞社)、『股間若衆』(新潮社)、『世の途中から隠されていること』(晶文社)『せいきの大問題』(新潮社)などがある。