瓦づくりは人づくり、人づくりは国づくり

瓦大工・山本清一インタビュー

『めざすは飛鳥の千年瓦』(山本清一著、草思社)より抜粋
2016年10月5日、2017年3月28日、山本瓦工業にてインタビュー
(聞き手:崔ゴウン・安田徹也)

屋根屋と瓦屋

―瓦を葺くのは「屋根屋」、つくるのは「瓦屋」と聞いてますが、山本さんは両方なさっています。一言で表すとすれば何とお呼びすればよろしいでしょうか。

そうだなあ、瓦大工でしょうな。大工さんかて「宮大工」といいますやろ。大工ちゅうたら一人です。棟梁のことや。他は小工です(笑)。鎌倉時代だけれど、法隆寺の瓦には「瓦大工橘吉重」というへらがきが残っているんです。鎌倉時代にはそれはすばらしい瓦をつくっています。ああいう瓦は葺く職人とつくる職人が同じだったからこそできたと思います。ちゃんとした瓦で葺いたら100年ぐらいはもつんです。屋根屋も瓦屋も丁寧にやればやるほど自分の仕事がなくなるという因果な商売ですわ(笑)。わしは瓦を葺く屋根屋で始めて、後から瓦をつくる瓦屋もやるようになりました。

棟梁の仕事

―棟梁という言葉が出ましたが、どのような役割なのでしょうか。

瓦葺きで肝心なのは「雨水を漏らさず、屋根を長くもたせる」ことです。そして古い瓦と新しい瓦を適所に使いながら、大勢でやった仕事を、いかにも一人でやったような姿に仕上げていくことですわ。雨漏りさせないだけの技術だけではだめなんです。わしの師匠は「どんな職人が手掛けても同じように葺きあがる段取りをつけるのが棟梁や、直接金槌をもって瓦を割ったり、うちつけるのは棟梁と違うねん」といつもいうてました。
大きな仕事になったときには、自分が直接しているようでは、まわりが見えなくなってあかんのです。棟梁というのは、大きく全体を見て、職人を使う仕事なんです。あと、仕事もみるが、人も育てなあかんですな。わしは一人でもいいから指導者になる人間を育てたらええと思っとります。そしたらまたその人が次の人を育てて増やせますからな。

―一人前の職人になるのは何年ぐらいかかるんでしょうか。

うちは民家も文化財も、どっちもいけるようにしこんでいるから、まあ、10年ほどかな。まずは職人の心がまえと体づくりが先です。体は訓練したらあるところまではいきます。そやけどなんぼやっても上手下手があるのはしゃないですわ。大事なのは、頭のええ悪いと違うて、まず心から打ち込めるかどうかですわ。仕事は心でするもんです。金はどうでもええわい、ええ仕事をしようという気持ちがあれば、自然に手足が動くから上手になりますわ。

瓦に使う土

―瓦をつくる原料の土は、どこの土を使っておられますか。

それ、一番多い質問ですわ。答えは地球の皮です(笑)。瓦づくりの土は「原土」という粘土がまずいりますな。山の土や田んぼの土、畑の土を使う場合もありますし、専用のええ粘土もあります。昔は自分らで掘りましたやろうが、今は専業の「土屋」がおります。その土屋も減ってしもうて、今は淡路、三河、岐阜の3カ所しかありません。土は手に入れましたら、すぐに使うんやなくて、必ず2年くらい雨つゆにかけ、何度かひっくりかえして「寝かせ」ますな。そうすることで土に粘りもでるし土がおとなしくなるし、成形しやすくて、乾燥のときも傷やひびわれすることが少なくなります。
また、瓦を葺く時に使う「葺き土」というのも別にあります。法隆寺なんか昔は西院伽藍の東側に壁土用の土場ちゅうのがありましてな、藁苆を入れた土を3年も4年も寝かせとりました。藁苆が腐って、土が変化するまで。そこへもち米を植えて、穫れたのを現場の者みんなで餅ついて食べとりました。そういう壁土や葺き土は一緒のものでな、ねばい土も屋根には使われているんです。

昔の屋根屋の仕事

―山本さんは屋根屋として仕事を始められました。その当時はどこの瓦を使っていたのですか。

それはこの地元(奈良)のもんです。わしが20歳ぐらいの時にはまだ在所に瓦屋がたくさんありました。大体一里、4キロぐらいで瓦屋が一軒ずつ。職人が5人ほどの小さい瓦屋で、達磨窯を二つぐらい持っとりましたな。焼いてる所から売る所いうたら、運搬はみな牛車やから、そんな遠い所には行けないんです。そういう小さな瓦屋は今はみな無くなってしまいました。

―瓦を葺くときに何か決まりはありましたか。

昔はものがない時代ですから、使える瓦はできるだけ使いました。瓦はよう焼けたほうが勝ちや。瓦の焼き具合をみて、日当たりが良い南には焼きが悪い瓦を、寒くて日当たりの悪い所へは焼きが良い瓦を回します。昔の達磨窯で焼いた瓦は、よう焼けてるやつと焼けてないのとで寸法が縦横で5分(15mm)ぐらい違うんです。今ならシートで雨養生するけれど、当時はシートなんてものは無いから、屋根を葺く前に「仮葺き」と言うて、雨養生替わりに屋根の上全面に瓦を仮並べしておくんです。その後に改めて屋根に瓦を割付(瓦の大きさを基準に、屋根面にどの瓦を葺くかを決定する作業のこと)するのも、仮葺きされた瓦をめくっていって、屋根の上で瓦を選別しながらするわけです。わしの親父は良う焼けたやつと焼けてないのと、ふつう位のと、三手ぐらいに分けとりました。ガリガリ言うとるやつはよう焼けとる瓦です。大きさもいちいち測ってません。手で持てば、重さや手触りで分かるんです。熟練ですわ。

―瓦の選別や割付は全て感覚で判断されていたのですね。

そうです。結局みな勘ばっかりでやってたから、見て覚えなあかんわけです。聞いた話によると、井上新太郎さんの叔父の松太郎さんが30歳の時、瓦大工棟梁として東大寺大仏殿の明治修理をされた際、三河の職人と、奈良や大阪の職人とで東西半分に割って屋根を葺いたそうです。奈良と大阪の職人は、いきなり瓦を屋根の上に上げて葺いとったみたいです。三河の方は何日たっても上へ上がってこうへん。それで奈良の職人は、勝ったと安心しとったわけです。ところが三河の職人が上へ上がって来るようになったら、バタバタっとやってしもうた。そこで負けたわけです。三河の職人は瓦を屋根に上げる前に、下で瓦を選別しながら、ずうっと番付を入れとったんです。急勾配のところで、瓦をあっちやりこっちやりしとったら、もう仕事にならんわけやね。

唐招提寺鴟尾解体。右が山本清一氏/2001年8月

法隆寺金堂。井上新太郎氏、山本清一氏/1954年頃

文化財との出会い

―文化財の仕事をするようになったきっかけは。

20歳の時、新築する斑鳩町役場の屋根を「予算ないけど、勉強がてら葺いてみないか」と言うてもらったんです。法隆寺から100メートルほど南にあって、屋根の形がお寺形式でした。それまで民家の屋根が主だったから、難しかったですわ。考えて考えて工夫しながら葺きました。それでも、どうしても分かりにくい所が出てきますんや。そのたびに法隆寺の屋根を見に行きました。それは勉強になりますわ。反りでも軒でも、鬼瓦の位置や棟の形のよさ、全体の美しさ、なんでも瓦を葺くもんから見たら溜息の出るような建物ですわ。そやけど何べん見に行って真似しようとしてもできへん。レベルが違うたわけです。それから、寝ても覚めても、法隆寺や東大寺のような伝統的な屋根を葺いてみたいと思うようになりました。
そんなわしの思いを知ってくれた山本正治さんという人が、親父に話をしてくれて、文化財の建築の屋根を葺く専門家だった井上新太郎さんのところへ行って頼んでくれたんです。あのころ、井上さんは法隆寺の仕事をしていて、自分が食うのがやっとやったころだから、弟子もいなかった。でも仕事は忙しかったからちょうどええということで弟子にしてもらったんです。初めて仕事を手伝わせてもらったのは法隆寺と松本城でした。井上さんの呼び方は「親方」やったですな。

―井上新太郎さんはどんな親方でしたか。

とにかくものすごう頭のええ人でね。屋根屋もやはり大工と同じように規矩術を使います。しかし実際には当時の屋根屋というたら、ほとんどは勘ばっかりでやってましたね。そやけど、先に勾配や反りの具合なんかをきめて図面をきっちり描いておかなんだら、大工や現場の監督に説明できません。それで親方は一つ一つの仕事を施工図や原寸図に描いて、勘に頼らんやり方をしてたんです。「この曲線がここに届くんや」と説明されましたら、なるほどそうやったんかと。目から鱗とはこのことですわ。教え方も怒んのと違うてほんまに教える。「ここはこうや」というて教えるんやなく逆に「ここはどないするんや」と弟子のわしに考えさせる人やったな。そやからこっちもわかりませんとは白状せえへんのや。一晩二晩とさんざん考えてこうやないかなと思ったころに、親方はセメントの袋を広げて図面を描いてくれますのや。毎晩毎晩そうやって疑問を解いてくれましたな。原寸図ははじめて棟梁を任された東大寺大仏殿の仕事で生かさしてもらいました。

―原寸図が多いに役立った東大寺大仏殿の仕事。

わしらの仕事は建物の散髪屋ですわ。その建物が建てられた時代に合う屋根ちゅうもんがあるのです。おっさんにおばはんの髪型はへんでしゃろ(笑)。大仏殿なんかはできるだけ男前にしてやりたい。描いた姿になるように、まずベニヤ板に30分の1の縮図を描き、大棟、降り棟、隅棟や軒先などの要所は師匠から教えてもらった原寸図を描きました。
工事中は大仏殿は素屋根で覆われていますから、棟積みの曲線やとか、四隅の反り具合が地上からどう見えるか分かりません。わしは頭の中で、棟の反りに勢いを出すことを考えながら原寸図を描きました。
東大寺大仏殿は大きいでっせ。屋根にあがると運動場みたいに広いんです。せやからたくさんの職人を使わななりません。原寸図を描き、その通りに誰でもできる工法を考え、段取りをして、みなにやってもらわななりませんでした。勘ではああいうもんはできませんで。勘でやらせたら、てんでんバラバラの汚い仕事になってしまうんです。
腕がいい職人ほど、自分の好き勝手なことをやりたがる。そやけど、一人でやったってしゃあない。それをどうやってまとめあげるかということですわ。それらをまとめあげるために「原寸図」という一つの基本をつくっておくんですわ。そうすると職人が交代しても同じように仕事ができるんです。

古代瓦の復元

―古代瓦を研究するようになった理由は。

瓦の仕事をして60年あまりになります。国宝や重要文化財の屋根の修理や、文化財の復元や時代のまま維持するという難しい問題を解決するためには、勉強せななりませんでした。屋根屋の勉強は、姿・形、時代様式を知るだけやなくて、それをきちんと葺かなければなりませんやろ。各時代の建物を手がけるようになりましたら、どうしても朝鮮から瓦博士が来て瓦のつくり方を教えた原点から、どう変わってきたのかを調べな納得いきませんやろ。そんなこんなで古代瓦の復元まで試みることになりました。瓦は残っておっても、それがどうつくられ、どう葺かれたのか分からんのでは、文化財の修復も復元もない。復元、再建やというなら、その当時、何をどう考えてやっておったのかを検討し、どういうふうに建物がつくられ、どんな屋根で、どんな瓦がのっていたのか知らなければ、復元とはいえませんやろ。それで桶をつくったり、型をつくったり、麻や苧麻を植えるところから、折り機の復元、筬までこさえて布もつくって、登り窯もつくりました。そうやっていろいろと瓦づくりを研究して、なんとか桶巻の瓦だとか、いろいろ復元できるところまで来ました。研究者はじぶんらの担当した分野の研究結果を発表すればいいんやが、わしらは実際の瓦はこういうつくり方をして、屋根に葺いていましたと、立証してみせなならんから苦労しとるんです。

―古代瓦のように1000年の風雨に耐える丈夫な瓦づくりはなにが一番重要でしょうか。

なんで飛鳥時代の瓦が長持ちしとるのかを考えて、いままでやってきたんです。いろいろ見たら、やっぱりよく焼いた瓦が残っとるんです。1400年ももっている元興寺極楽堂の瓦も1200年もった唐招提寺金堂の天平の鴟尾もやっぱりうまいこと焼いてつくってありますわ。そうでないとこれだけの長い歳月、残りませんな。わしは瓦づくりは一窯、二土、三仕事と思うております。先人がやってのけたのやから、わしらのはもっともたさなあかん。少なくとも1000年はもたそうと思って焼いとるんです。これまで以上の技術でフォローしておけば、もっともたせられますからな。

人を育てる

―瓦づくりは人づくり、人づくりは国づくりと仰っていますが。

人は育てられるときに育てておかんと取返しがつかんようになります。一代欠けたら繋がるもんも繋がらんようになってしまう。駅伝みたいなもんでバトンタッチしないと、途切れたら終わりです。文化財を大事にしようと思うたら、いつかは修理していかんともちません。そのときは、金だけあるというのではできまへんのや。やっぱり修理できる職人がそのときどきにおらなんだらあきません。真剣に技の伝承を考えなならんのです。
うちには若いので17歳から来てます。若い人がかわいくてのう。毎朝6時30分に現場にいく若い衆の朝礼があるんやけれど、わしは毎日5時に起きて、みなにお茶を入れとるんです。苦い苦いお茶やけどな(笑)。まあ、職人としてのしつけと、感謝と無事を祈る気持ですわ。若い衆は、遠い奴だったら40分くらいかかって来よる。せやから、その家族はわしよりももっと早う起きてる筈です。わしはその人らの代わりに入れとるだけで、苦かったら飲まんとほっといたらええ(笑)。しんどうて「もうやめようか」ちゅう日もあるけど、やっぱりこれだけは、死ぬまで続けようと思っておりますのや(笑)。

山本清一(やまもと きよかず)プロフィール

1932年奈良県生まれ。14歳で瓦葺職人の父に弟子入りし、瓦一筋70年。21歳の時、井上新太郎のもとで文化財の仕事に入る。26歳で独立、31歳の時に瓦職人の擁護・保障のため、山本瓦工業(株)を設立。38歳の時に工場を設立し、自ら瓦製造を開始する。古代瓦づくりの研究と製作、葺き方の研究も行う。主な仕事は、法隆寺金堂、松本城、姫路城、東大寺大仏殿、薬師寺伽藍、唐招提寺金堂、平城宮跡の朱雀門や大極殿など多数。現在は次世代の育成に力を注いでいる。著書に『めざすは飛鳥の千年瓦』。選定保存技術保持者。黄綬褒章受賞。旭日双光章受賞。日本伝統瓦技術保存会会長。

東大寺大仏殿修理。大棟の原寸図を描く山本清一氏/1977年

古代瓦復元の実演(帝塚山大学瓦研究会)/2005年