瓦の歩み

丸瓦と平瓦を組み合わせて葺き上げる「本瓦葺」といわれる重厚な瓦屋根は、6世紀末、日本で初めて建立された本格的な寺院・飛鳥寺の造寺技術とともに朝鮮半島から導入された。導入当初は専ら寺院建築に用いられたが、奈良時代(710~794年)には宮殿をはじめ地方官庁にも普及される。平安時代(794~1185年)には建築の日本化とともに瓦の需要は減り、瓦製造技術も衰えるが、鎌倉時代(1185~1333年)に入ると瓦の需要が再び増え、改良が進み、室町時代(1336~1573年)に一気に大改革が行われ、現代にも通じる品質の高い瓦が完成される。江戸時代(1603~1867年)には丸瓦と平瓦を組み合わせて一枚にし、瓦の重量を大きく軽減した桟瓦が考案され、江戸幕府の瓦奨励もあって、一般の町家にも使われるようになり、今でも住宅や寺院で用いられている。

建物の軒先に用いる軒瓦は、軒丸瓦と軒平瓦で構成され、軒先から雨水が入らないように考えられた瓦である。古くから美しい紋様が施されており、軒丸瓦の紋様は古代は蓮華紋、中世以降は巴紋、軒平瓦は7世紀末~8世紀以降唐草紋様が主流となる。

本瓦葺きの軒平瓦と軒丸瓦(法隆寺 復元)
軒平瓦には忍冬文がある。

桟瓦葺きの軒瓦
桟瓦とは、丸瓦と平瓦が一体になった形式の瓦のことである。

法隆寺若草伽藍 2000年(復元)
630年代に若草伽藍の建物補修用に作られたと推定される。軒丸瓦は6枚の蓮の花びらの中に、立体的な葉を配列しているのが特徴で、同じものが中宮寺からも出土している。軒平瓦の紋様は、軒丸瓦の木型をそのまま流用し、型押ししている。

唐招提寺金堂 2002年(復元)
8世紀末の奈良時代の様式。東大寺や興福寺の紋様を簡潔化したものである。軒丸瓦は蓮の花びらは8枚だが、外縁を飾る鋸歯紋はなく、花びら周辺の連珠紋や中心の蓮の実(蓮子)は大粒で数も少ない。軒平瓦は唐草で、葉を大きくあらわしており、左右対称となっている。

鴟尾(しび)

鴟尾とは大棟の両端に据え付けられた装飾で、雨水が屋根に入るのを防ぐ瓦である。奈良時代の史料には、貴族たちが履いていた沓を立てた形に似ていることから「沓形」と記されている。瓦の中で、唯一古代から現代に至るまで、すべて一点ものの手作りで、最も作るのが難しい。まず形を作る上で、他の瓦に比べ大きくて分厚いため、粘土が重さで垂れ下がらないように成形していくのが一苦労、続いて最初に成形した粘土から乾燥が進むため、ヒビ割れが入らないよう均一に乾燥させるのがまた一苦労、最後に窯に入れて壊れずに焼き上げるまでが一苦労である。日本最初の本格的な寺院・飛鳥寺(588年)で出土した厚さ2cm、高さ1mを超える薄手の鴟尾を作ることは至難の業だという。

唐招提寺金堂の鴟尾 2003年(復元)
幅836㎜×奥行500㎜×高さ1190㎜、重さ200㎏

唐招提寺金堂の平成大修理(1998年〜2009年)の際に製作された。唐招提寺金堂の鴟尾は西が奈良時代、東が鎌倉時代のもので、傷みが著しかったため両方とも大棟から降ろされた。新しく据えられた鴟尾は、奈良時代の形を手本にし、平成の職人の知恵と技を結集して製作した渾身の作である。

姫路城大天守の鯱 2011年(復元)
幅1335㎜×奥行614㎜×高さ1870㎜、重さ280〜300㎏

鯱は頭が虎、体が魚という想像上の動物で、火除けの願いを込め、城郭建築の棟飾りとして多く用いられた。展示品は姫路城大天守の平成大修理(2009年10月〜2015年3月)の際に製作されたもの。巨大すぎて窯の中に収まらず、胴部分は上下に二分割、鰭も個別にし、ガス窯で焼き上げた。全部で4基つくられ、展示しているものはその一つ。製作を指導した瓦大工・山本清一氏は愛情をこめて4基それぞれに名前をつけている。
名前:播州一郎、次郎、三郎、四郎
播州一郎と次郎は大天守の大棟に据えられ、三郎は姫路城に寄付、写真は四郎である。