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『THE HORN BOOK MAGAZINE』1971年4月号掲載文より抜粋
ヴァージニア・リー・バートン日本旅行記
石井桃子

1963年ヴァージニア・リー・バートンからクリスマスカードをもらった時に、私は初めて彼女が日本旅行を計画していることを知りました。それ以前にも何度か彼女は「あなたの住む美しい国が見たい」という願いを口にしていましたが、そのクリスマスカードには、はっきりと「1月に日本に行く機会があるかもしれない」と書いてありました。私は急いで、私の国に来るなら1月はよい時期ではないことや、秋に開催されるオリンピックに向けて道路工事や古い建物の建て替えに政府や東京都知事が予算を費やしているので、当分の間、日本はあまり綺麗でないことを手紙で伝えました。

ところが東京がカオス的な状況にあるという私の心配を彼女は完全に無視し、その後の何回かの手紙のやり取りと計画の手直しの後、3月15日、日本航空で東京に着くという最終の通知が送られてきました。彼女は3月19日までは帝国ホテルに宿泊予約を入れていますが、その後の予定は何も決めていないのだと伝えました。しかし桜を見たいので、少なくとも2週間は日本に滞在したいと強く希望していました。
彼女の滞在中のお世話にあたっては、私の友人山本まつよと松岡享子の二人が協力してくれることになりました。まつよは当時福音館書店で働いており、享子は、アメリカで児童図書館について学び、帰国したばかりでした。

1964年3月15日夕方、岩波書店編集部の2人の女性と私の3人で羽田空港にお迎えに行きました。彼女の乗った飛行機は午後7時40分到着予定で、彼女の姿を探そうとタラップに出た時にはあたりはかなり暗くなっていました。

ほとんどすべての乗客が税関に姿を消したころ、茶色っぽいスーツを着て白いショルダーバッグを持った1人のほっそりした女性がゆっくりとした足取りで建物に近づいてきました。「彼女よ!」と私は大声で叫びました。「ミセス・デメトリアス!」しかし彼女は興奮してタラップに立っている3人の女たちに気づかぬまま建物の中に入って行ってしまいました。4、50分待った頃、ポーターに付き添われて、きょろきょろともせずに、デメトリアス夫人が現れました。私は彼女の腕を掴んで「ミセス・デメトリアス!」と言いました。突然彼女の表情が子どものように明るくなりました。「まあ、桃子。あなたが来ているとは思わなかったわ!こんなに時間が経っているのによく私だとわかったわね!」と、私のよく覚えていたあのハスキーな声で彼女は叫んだのです。

彼女は「観光客の行くところではなく、本当の日本を見るために」もっとゆったりした旅行をしたいと思っていました。私たちは彼女の旅程については後で話し合うことにしました。彼女は身軽な旅行者でしたが、自分のスーツケースを開き、「あなたにプレゼントを持ってきた」と言って、有名な『ロビンフッドの歌』の本を一冊取り出しました。その表紙の裏には次の言葉が添えられていました

  「親愛なる友人、石井桃子へ
  ヴァージニア・リー・バートンより」

その機会をとらえて、私は「あなたのことをどう呼べばいいですか?」と尋ねました。「ジニーと呼んで。」と彼女は言いました。「友だちはみんなそう呼んでいるわ。」

次の日もう一度みんなで集まってジニーの旅程について相談することにしました。その結果、まつよが東京を案内し、享子が京都、奈良への旅行に同行することになりました。

私は、ジニーがカリフォルニアにいた時に、東京のアメリカ文化センターと協力で企画していた編集者、教師、母親向けの児童書に関するセミナーの講師になってくれませんかと頼んでいました。ジニーが快く引き受けてくれたので、センターの主任司書であったミス・ドロシー・スポフォードは大喜びでした。ジニーは、東京での2日目の午後はアメリカ文化センターで、自分の本の作り方について講演をし、約100人集まっていた日本人の聴衆からの質問に答えました。日本の子どもたちもジニーの絵本が大好きだったので、参加者の多くは『ちいさいおうち』『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』『はたらきもののじょせつしゃけいてぃー』を知っていました。

その夜は、ミス・スポフォードの自宅で素晴らしいビュッフェの夕食をいただきました。そこには話好きのアメリカ人と日本人が合わせて15人ほど集まりました。会話は弾み、私たちにとって忘れられない夜となりました。私たちは彼女の到着後、初めてジニーが本当に陽気で興味を示す様子を見ました。彼女は元気を取り戻したようでした。

東京で彼女を待ち受けていたもう一つの仕事は、『せいめいのれきし』の日本語版について、出版を希望している岩波書店と話し合うことでした。東京での3日目、出版社や書店の集まる神田で、岩波書店の担当者と会って、打ち合わせをしたあと、私たちは、歌舞伎を見にいきました。歌舞伎の筋は極めて複雑で、日本人にとっても難解ですが、色づかいや、様式的な動き、役者たちの独特のセリフの言い回しが、筋書き以上に彼女に強い印象をあたえたのでしょう。ジニーはその芝居をとても楽しみました。薄暗い中で、彼女は膝の上に置いた小さなスケッチブックの上で忙しく手を動かしていました。

次の日、彼女の案内をするのは私の番であり、史跡や寺院が多くある、鎌倉に行きました。私たちは多くの寺院や古い彫像を見ました。アーティストとしてジニーが、見たものの感想をほとんど私たちに話さなかったことは驚きでした。大仏を見に行くと、彼女は喜びましたが、そこで彼女の言った言葉は「壁の水平線が大仏の線を台無しにしている」でした。
 
日曜日には、伊豆半島の西側の付け根にある小さな海辺の町に行きました。日曜日には、私たちはフェリーで伊豆半島を回りました。海風、切り立った崖、海岸の小さな村は、彼女にニューイングランドを思い出させたに違いありません。彼女はフォリーコーブで夫とニチニチソウを餌にしてどのように釣りをしたかを私たちに話しました。

その日の午後、まつよと私は東京に戻り、あとの旅を享子の世話に任せました。ジニーは、そこから下呂に行き、念願の日本の旅館に泊まりました。ジニーは旅館が出してくれた着物を着、和食を食べ、日本酒を飲み、畳の上に布団を敷いて寝ました。天気があまり良くなかったので、彼女たちは3日間そこに泊まらなければなりませんでした。雪が降った日もありました。手紙の中で、享子はジニーが部屋で座布団の上に座り、足をコタツで温めながら窓の外の雪の中に立つ木々をスケッチしたりして、いかに忙しくしているかを報告してくれました。

そのあと、ジニーは、羽田空港に着いて以来彼女が希望していた古都京都に行きました。京都では福音館書店の松居直氏の友人であり京都の女子大で教えていた中川正文教授に大いに助けられました。中川教授は、単なる観光客は決して目にしない京都の様々な側面をジニーに紹介することができました。ジニーと享子は友禅染めや西陣織、金糸をつくる小さな刺繍工房などの興味深い場所を訪れました。ジニーは、型染め友禅の工房では、とても興奮して型紙を切る小刀の研ぎ方を教えてくれるよう職人に頼みました。親子が共に働いている工房では、こうして親から子に引き継がれる真の職人気質が生きていることを喜び、見たことすべてを夫への手紙に書こうとすると時間がどれほどあっても足りないと言っていました。

奈良へは、松居直氏のもう一人の友人である中川健蔵氏が車で連れて行ってくれました。春日大社では、幸運にも、結婚式や、お宮参りを見ることができました。ここでもまた大仏に出会いました。鎌倉の大仏より大きい奈良の大仏は、世界最大の木造建築である大仏殿に座っていました。その大きさがジニーを喜ばせました。

この間、ジニーはたえず子どもたちや人々が働き、遊び、観光している様子をスケッチしていました。ジニーは享子にもし日本人の身体の動きの特徴をつかむことができたら、日本の昔話集に挿絵を描きたいと語っていました。
 
帰京してから日本を離れるまでの最後の数日で、私にとって最も重要な出来事は彼女が私の小さな家庭文庫にきてくれたことでした。子どもたちは『ちいさいおうち』『はたらきもののじょせつしゃけいてぃー』や『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』の作者本人が来てくれたことを楽しみました。彼女は彼らに優しくはなしかけ、「ちゅうちゅう」や「ちいさいおうち」やその他子どもたちが要望したいろいろなものを描いてくれました。一人の4歳児が「怖くない獰猛な動物」を描いてほしいと頼みました。すると彼女はすぐに恐竜-ブロントサウルスを描きました。

その夜、数人の友人が私の家に集まりました。彼女は私たちにフォリーコーブ・デザイナーズの歴史やその発展の過程で起きた出来事について話してくれました。彼女は自分のデザイン理論までも説明し、簡単な例を紙に描いてくれました。

まつよと私は彼女が本当に好きだと思ったので、再び歌舞伎を見に行きました。その計画を彼女に話すと彼女は子どものように「歌舞伎を2回も見られるなんて…」となんども繰り返して言いました。彼女は歌舞伎を楽しみましたが、滞在中最も重要な仕事は夫のために刀を買うことでした。私のアシスタントであった田辺梨代子がお父さんのお気に入りの骨董品屋に連れて行ってくれました。ジニーは長い刀と短い刀の二本を買ったが、それぞれ立派な鑑別書が付いていました。しかし彼女が特に気に入ったのは、柄の模様に見られる素晴らしい職人仕事でした。

帰国が近づいた時、私は日本の芸術一般に付いてどう思うか尋ねました。彼女には日本の芸術家は自然から離れて行っているように思え、それは決して良いことではなく、芸術家は何度も繰り返し自然に立ち戻らなければならないと言いました。
最終日に、彼女が集合をかけた何人かの日本人の友人がガーディナーさんの家に集まりました。彼女はみんなに別れの挨拶をし、私たちは車で空港に向かいました。こうして日本での彼女のゆったりした旅は終わりを迎え、私たちにとって彼女は一人の作家ではなく、親友となりました。彼女が帰国してしばらくの間、彼女からは1週間おきに手紙が届きました。「あなたたちは親切だった。」「あなたたちは素晴らしい。」とありました。

私たちはそんなに彼女に親切であったでしょうか?私たちはそんなに素晴らしかったでしょうか?それはわかりません。ただ私たちは彼女を日本に迎えることができて嬉しかったのです。彼女の来日前に今、日本は美しくないなどと忠告した私は愚かでした。彼女は何かを見ると、何が本物で、何が本質的で、何がそうでないかを見極めることのできる人でした。

翻訳:重松加代子 (原文は英語で掲載されました)

Japanese

Extract by “THE HORN BOOKMAGAZINE” April 1971
Virginia Lee Burton’s Trip to Japan
By Momoko ISHII

It was from Virginia Lee Burton’s Christmas card of 1963 that I first learned about her plan to come to Japan. Even before that, to be sure, she sometimes mentioned her desire to see “your beautiful country,” but in this card, she clearly stated that “there is a chance I might come to Japan in January.” at that time. At once, I wrote back that January was not a very good month to visit my country and she should not expect Japan to be beautiful, at least for the time being, when both our central government and the Mayor of Tokyo were putting most of our budget into digging up streets and tearing down old houses to meet the deadline for the Olympic Games to be held in the fall.

She entirely disregarded my concerns about the chaotic conditions in Tokyo, and after some exchange of letters and some changes of plan, she sent me a final notice that she would arrive in Tokyo on March 15 by Japan Air Lines. She said that she had reservations at the Imperial Hotel through March 19, but that she was leaving the rest of her itinerary open. She did want, however, to stay in Japan at least two weeks, so that she would be able to see the cherry blossoms.
Matsuyo Yamamoto and Kyoko Matsuoka, the former with Fukuinkan Shoten then, and the latter, with excellent credentials as children’s librarian from Western Michigan University and Enoch Pratt Free Library. I knew that the three of us would be well able to take her around in busy, crowded Japan.

Two ladies from the editorial office of Iwanami Shoten and I were at the Haneda Airport the evening of March 15, 1965. Her plane was due at 7:40 p.m., and it was quite dark outside when we went out on the ramp to watch her arrive.

Then, when almost all of the passengers had gone on to the customs office, a lone, slender figure clad in a brownish suit and carrying a white shoulder bag slowly walked toward the building. “That’s she!” I shouted. Then, “Mrs.Demetrios!” But she had gone into the building without noticing the three excited women on the ramp.

After we had waited about forty or fifty minutes, Mrs.Demetrios came out accompanied by a porter, looking neither right nor left. I grabbed her arm and said, “Mrs.Demetrios!” Her face brightened up like a child’s. “Why, Momoko, I didn’t expect you! How could you recognize me after such a long time!” she cried in her husky voice, which I so well remembered.

She wanted to travel in a leisurely way, “to see the real Japan, not the tourists’,” We decided that we would discuss her plans later. She opened her one suitcase – she was a light traveler – and, saying, “I brought you a present,” took out a copy of the famous “Song of Robin Hood” and inscribed on the back of the title page:

    “Best wishes to my dear friend Momoko Ishii
    From Virginia Lee Burton.”

I took this chance to ask, “What shall I call you?” “Call me Jinnee,” she said. “All my friends do.”

Then we decided to get together again next day and talk over Jinnee’s itineraries. Matsuyo, who was on their staff, was to take Jinnee around while in Tokyo, and then they assigned Kyoko to take over to accompany Jinnee to Kyoto and to Nara “in a leisurely way.”

While she was still in California, I had asked her to be one of the lecturers at a seminar on children’s books which we had been planning for editors, teachers, and mothers in collaboration with the American Cultural Center in Tokyo, and to the delight of Miss Dorothy Spofford, the chief librarian of the Center, she agreed to do this.

In the afternoon of her second day in Tokyo, she talked and explained how she created her own books, and answered the questions put to her by a Japanese audience of about one hundred. Many participants knew “The Little House”,“ Katy”, and“ Choo Choo”, since Japanese children really love these books.
In the evening, there was a lovely buffet dinner at Miss Spofford’s apartment. It was a lively group of Americans and Japanese, about fifteen altogether, and among them Kyoko Matsuoka. The conversation was quite spirited, and it was a memorable evening for us. We felt that for the first time since her arrival, Jinnee looked very cheerful and interested, and seemed to have regained her good spirits.

A piece of business which was also awaiting her in Tokyo, whether she liked it or not, was the Japanese edition of “Life Story.” Iwanami Shoten had been trying to get the right to publish it in Japan. On the third day in Tokyo, after a brief business session at Iwanami Shoten in Kanda, the publishers’ and bookshop district of Tokyo, Matsuyo and I took her to see kabuki. Generally, the plots of kabuki plays are extremely involved and even for the Japanese they are becoming difficult to follow. Fortunately, Matsuyo was a kabuki lover and there was an English program available at the theater. With these helps, Jinnee immensely enjoyed the plays. The color schemes, the stylized movement, the peculiarly unique elocution of the actors must have impressed her more than the plots, I am sure. In the dim light, her hand moved fast on a small sketch book which she held upon her lap.

The next day, it was my responsibility to take her. We went to Kamakura, a city which abounds with historical sites and temples, for it was the seat of the central Japanese government in the thirteenth century. We saw many temples and old sculptures. For an artist, Jinnee told us surprisingly little about what she thought about the things she saw. When we went to see the Big Buddha, she was delighted, but she noted that, “The horizontal line of the wall mars the line of his figure.”

On Sunday, we cruised round a part of the peninsula by ferry. Sea wind, rugged cliffs, and little villages on the shore must have reminded her of New England, and she told us how she fished on the beach with her husband in Folly Cove, using periwinkles as bait.

Sunday afternoon, we left Jinnee in the care of Kyoko. The inn at Géro, Yunoshima Ryokan, is very old and famous.Jinnee wore a kimono which the inn provided, ate Japanese food, drank sake, and slept on mats. As the weather was not good, they had to stay for three days. One day it snowed. In her letter, Kyoko told us how busy Jinnee was – sketching trees in the snow outside her window while sitting on a zabuton in her room with her feet on the foot-warmer.

At last they came to Kyoto, our old capital. There she and Kyoko found great help in the person of Prof. Masabumi Nakagawa. A native of the city, he was able to introduce Jinnee to many aspects of Kyoto which a mere tourist would never get to glimpse. Jinnee and Kyoko visited interesting places, such as little workshops for silk printing, stencil dyeing, the weaving of precious sashes, and the making of gold thread. When Jinnee went to see a stencil cutter, she got quite excited and asked the man to teach her how to whet the knife. On her way back to the hotel, Jinnee told Kyoko that in these men, there lived on the kind of genuine craftsmanship which can only be handed down from father to son; that she had seen so much that she would not be able to find time enough to write about everything to her husband.

Another Mr. Nakagawa, the friend Mr. Matsui, drove the three to Nara, our oldest capital. At Kasuga Shrine, they fortunately happened to see a typical Shinto wedding and a miyamairi, our old custom of taking a newborn baby to the shrine to pray for lifelong protection from the god. Jinnee met the Big Buddha again here, and this time, he sat in a palace of his own, the largest wooden building in the world. I do not know if he is more handsome than the Buddha in Kamakura, but certainly he is bigger. Whenever you stand in front of him, he looks much bigger than you expect him to be. His size delighted Jinnee.

All this while, she was sketching children and people – working, playing, or sightseeing. Jinnee told Kyoko that once she could grasp the mannerisms in the movement of Japanese people she would like to illustrate a collection of Japanese folk tales.

From that day to the day of her departure Jinnee was a guest at the Gardiners’, although, she was out most of the time. To me, the most important thing that happened during her last few days was her visit to my little home library. As she had given the publisher’s splendid bouquet to me, the hall of my house was gay with real roses when she came to see us on Sunday. The children enjoyed having with them the person who had created “The Little House”, “Katy”, and “Choo Choo.” She talked gently to them and drew ‘Choo Choo’, ‘The Little House’, and many other things they requested. One four-year-old asked her to draw “Some fierce animal which is not horrible.” And she instantly produced dinosaurs and brontosaurs.

In the evening, a few friends gathered at my house. She told us about the history of the Folly Cove Designers and about episodes which had happened in the course of its development. She even explained her theory of design, drawing simple examples on paper.

We went to see kabuki again, too, for Matsuyo and I thought she had really liked it. “To be able to see kabuki twice…,” she repeated several times like a child when we told her of our intention. She enjoyed her kabuki session, but her most important errand during this period of her stay was to buy swords for her husband. Jinnee bought two swords, a long one and a short one, each one with an impressive certificate. But what she liked particularly about them was the craftsmanship, the design of their hilts.

When she was about to leave Japan, I asked her what she thought of Japanese arts in general. She answered that to her it seemed that Japanese artists were getting detached from nature and that it was not a good thing, and that artists must go back to nature again and again.

On her last day, the several Japanese friends she had collected gathered at the Gardiners. She said goodbye to them and we drove to the airport. Thus her leisurely trip in Japan came to an end and she left us not as just another author, but as a good friend. For some time after her return home, her letters came to us about every other week. “You were kind,” “You were good.”

Were we so kind to her? Were we so good? We do not know. We just liked having her in Japan very much. It was foolish of me to warn her before she came here about Japan’s not being beautiful at the moment. She was a person who when she saw something knew what was real and essential and what was not.

Translated by Kayoko Shigematsu