榎本新吉の左官仕事-東京左官の粋
Shinkichi Enomoto - the Spirit of Tokyo SAKAN

榎本新吉は、父の後を受継いで左官となりました。町場の仕事を主にしていましたが、やがて左官短期大学の山崎一雄氏に師事して京壁を学ぶようになりました。

平成に入り50歳になった頃、榎本は工事から身を引いて各地の土巡りをはじめます。「土、砂、スサ知らねえで壁なんか出来るかっていうんだ」。住まいはいつしか実験工房となり、地下室は採取してきた膨大な土の倉庫となりました。泥の固まりを砕いて成分を検証するのです。

左官技法の中でも最も難しいといわれる「磨き」も榎本流の発想で新しい技を考案しました。日本伝統の大津磨き。榎本はイタリア流に生石灰クリームを使い、オリーブオイルを塗って磨くことを発見します。平易に解釈された技は、三次元の大きな面を仕上げることまで可能にしました。その集大成が、泥ダンゴという小さな塊に閉じ込められているのです。

榎本のまわりに多くの人が集まりました。左官だけでなく、大学生から幼稚園児、一般の人たちまで相手に「やってみなよ」と声を掛けます。路にはみ出した作業場にはいつも女性作家がいて、花瓶や額縁を作っていました。「五十の時、左官職人に幻滅を感じちまったんだ。でもいま楽しいね。左官やってて本当に良かったよ。こんな歯も無くなっちまった爺さんの所へ、若い女の子がいっぱい来るんだからな」

榎本は茶席の炉壇をつくる仕事をしていました。炉鏝一本で塗り替える伝統工法を尻目に、古い鋸を加工した鏝でみごとな精度に仕上げました。「課題があるんだよ」。必要なことを見据えた合理性が若い左官を惹きつけたのです。

いつも鏝を片手に土を考え、少年のままに柔らかな発想で挑み続けた榎本は平成25年6月に逝去されました。享年85歳。その心は多くの後進に引き継がれています。「榎本さん、左官のプロでしょって言われたら、違うよ、俺はプロじゃねぇよ、職人だよって言ってやるんだよ」