土の塗壁の寿命があまり長くないことは意外と知られていません。千利休の作と信じられている日本最古の茶室妙喜庵も、壁は当初のものではありません。桂離宮の幕末の修復工事以前の壁がどのようなものであったのでしょうか。それを辿る唯一の手段は、鏝と材料の歴史をひも解くことなのです。
左官壁の基本は平らに塗ることです。耐久性のために苆(すさ)を極限まで混ぜた材料は、鏝の動作に大きな抵抗を発します。上塗りを均一な厚さで撫でるように操作するためには、バランスよく鏝を保持する必要があります。しかし、鏝面の中央近くに支点を設けた中首鏝は江戸末期までありませんでした。木鏝しかなかった時代、端部に支点をもつ元首鏝の頃の壁は、もっと荒い凸凹した壁であったと考えられます。
ここでは幕末から明治にかけての京都の鏝を紹介します。その歴史は、現在知られている左官壁の仕様が、同時期に完成していたことを物語るのです。
鏝の形は、柄の軸(鏝首)を取付ける位置が手前に付く元首鏝と中央部に付く中首鏝に分類されます。今では中首鏝が多く使われますが、薄い鉄板に鏝首を付けるカシメの技術が難しいため、江戸末期までは鏝首を打ち出してつくる元首しかありませんでした。鉄も柔らかい地金か、同形の木鏝であったと考えられますが、残念ながら当時の木鏝の残存例は見つかっていません。
鏝を保持する支点が端部に設けられた元首鏝では鏝面を一定に保つことが難しいため、平面度の高い壁を仕上げることはできません。ではどんな鏝で仕上げをしていたのでしょうか。たとえば、鏝面を船底状に丸くした鏝で軽く上塗りを撫でると、表面がさざ波状になります。これを引き摺り痕と呼びます。金属の鏝がまだ普及していない頃、すり減って丸くなった木鏝では必然的にこの様になっていたと考えられます。現存最古の京土壁である蓑庵の壁がところどころ引き摺りになっているのもそのためと考えられます。
大きな壁を平らに仕上げるためには、鏝面の中央に柄を付けた中首鏝が必要です。荒壁の荒直しや中塗後の地均し用の鏝で通し鏝という道具があります。江戸時代末期のものが今見つかっている最古です。この頃から今のような平らな土壁が塗られるようになったと考えられます。
荒壁仕舞いや中塗仕舞いという言葉があります。荒壁やその上に塗る中塗りまでして次の工程をせずに終わりにするという意味で、江戸時代の古典にも登場します。実際に中塗りで止め、慶事の際に仕上げることが多かったようです。
上塗りの仕様には糊を加える糊土と加えない水捏(みずご)ね仕上げがあります。糊分を加えることで土を薄くできる糊土仕上げは、頻繁に塗り替える壁に価格を抑えた仕様として重用されました。一方、水捏ねは耐水耐久性に優れ、細かな肌の最高級な仕上げです。やがて、少し長めの苆の仕様と切返しや糊を少量加えた糊差しなどのバリエーションが加わりました。
もっとも粒子が細かく整った上塗りをするためには中首型の鋼鏝が必要です。細かな苆を大量に調合した土を硬くしまった鋼鏝で撫でるように仕上げます。以前、中首鏝は明治末期にできたと考えられていたため、それまでの土壁はもっと荒かったと信じられていました。江戸末期から明治初期の鏝が発見されました。明治の初めには細かい肌の水捏仕上げが可能であったのです。
室町時代から城郭などに多用された漆喰仕上げ。しかし、現存例はありません。焼いた石灰岩を俵に入れて水と反応させた俵灰では、今よりはるかに精製が劣っていたはずです。桂離宮では粒状に固まった石灰粉を意図的に混ぜたパラリ壁をつくりました。
鏝の使い方は、押えこむことと撫でることに二分されます。この微妙な加減で艶をもたせたり粗くしたり操作します。漆喰は押えることが基本。しかし、硬さと壁面との接地面積で肌を操作するのです。
左官技法の中では磨きが最も難しいとされます。石灰や土、繊維質を調合した材料を塗付け、鏝で圧縮する過程で水が抜ける。水と一緒に浮かび上がる極微細な成分を均すことで輝きを得ます。鏝面の接地面積を少なく、硬く滑りやすい特性を得るため、端部を細く残して削り、高温で焼入れ処理をしています。そのため刀鍛冶と同等な技量が求められるのです。明治初期の磨き鏝が見つかったことで、その当時に既に使われていた仕様ということが分かります。
いろいろな左官の仕様がありますが、道具の目線で歴史をみると、そのほとんどは幕末から明治にかけて完成していたことが分かります。近代化の過程において、刀鍛冶の技術の流れが左官の世界を発展させていったのです。