1941年生まれ。韓国忠清北道清原出身。17歳で大工の道に進む。1960年、韓国宮殿建築技門の系譜を継ぐ李光奎(イ グァンギュ)に師事。
1962 年崇礼門解体工事現場で李光奎の師匠、趙元在(ジョ ウォンゼ)と出会い、本格的に大木匠を志す。1970 年仏国寺復元工事で副大木匠、1975年水原華城長安門復元工事ではじめて大木匠を務める。それ以来、昌慶宮、昌徳宮、景福宮、光化門(景福 宮の正門)、崇礼門(南大門、漢陽都城の南門)など宮殿の工事を一手に担う。1991年、師匠李光奎の後を継ぎ、重要無形文化財第74号に指定される。
韓国で大工仕事は「大木」と「小木」に分かれる。大木は建物の主な骨格、つまり柱、梁、桁、垂木などを組み上げて建物をつくる仕事。小木は建具、扉、家具などをつくる仕事である。大木匠はこの大木の作業を束ねる存在である。朝鮮時代の国の建築工事を記録した営建儀軌および上梁記録などをみると同じ家門に属していると思われる大工が登場する。これは徒弟(とてい)制度が血縁関係に適していたためと思われる。17歳の申青年も大工の従兄に連れられ、住宅の建築現場に足を踏み入れた。20歳の頃、奉元寺新築工事現場で李光奎(イ グァンギュ)に出会い、宮殿や寺院建築の世界があることを知る。さらに李の師匠で当時韓国宮殿建築の第一人者であった趙元在(ジョ ウォンゼ)から基礎を学ぶ。若き申は、洪淳謨(ホン スンモ)-崔(チェ)ウォンシック-趙元在-李光奎へと続く韓国宮殿建築「技門」の継承者として成長してゆく。
大木匠は生涯を木とともに生きる。韓国の建築は主に松材を使うが、寺院や一般住宅には欅(けやき)、五葉松、橅(ぶな)なども用いたりする。しかし古くから宮殿建築には必ず韓国で自生している樹齢150年以上の松を使う。最高の松を求め、自ら山に入り、木を探し、伐木も指揮する。時には雪山で遭難したこともあった。こうした経験から、木を見る目ができたという。大木匠はよい松について、次のようにいう。 ・樹皮が赤みを帯びている - 樹皮が黒い松を伐れば木の色が白い。樹皮が赤みを帯びた松は黄色か朱黄色である。 ・節が黒みを帯びている - 赤松の節は濃い赤黒色、一般の松は淡いピンク色である。節が黒みを帯びている松が建築材としてはよい。 ・樹皮が亀甲模様にひび割れしている - 樹皮が上下に長いものより、亀甲(きっこう)模様に割れている松が良い。
景福宮勤政殿の隅軒
景福宮勤政殿内部
景福宮勤政殿(1867年、ソウル)
景福宮の正殿で国家的な重要行事が行われた建物。
力強く反り上がった軒の曲線と組物の精密さは見事である。
今日、建築を建てる際、設計と施工は分離されている。しかし19世紀以前まで建物の設計と施工の主体は大木匠であった。朝鮮時代の建築工事記録には大木匠に白休紙と墨、筆を支給したとの内容が確認できる。白休紙は大きな白い紙で建物の平面図と詳細図を書いた紙だといわれるが、現存するものはない。墨は部材の墨付けや原寸図を制作する際に使った。大木匠の下には少なければ数十名、多い時には百名を超える職人が働いていた。頭の中にある設計案は原寸図として具現化され、これに沿って迅速に木取りと組立が行われる。木造建築は大小の部材を複雑に組み上げる。大木匠はその部材一つひとつが数十年後、数百年後、どのように変化するのかを見越した上で、木取りを行い、部材の寸法や組み方を決める。
崇礼門建築構造模型 縮尺1/10 申鷹秀蔵
崇礼門は朝鮮時代の首都漢陽を囲んでいた城郭の正門で、南に位置していることから南大門とも呼ばれる。重層楼閣建築で、朝鮮初期木造建築の特徴をよくあらわしている。重層建築は単層建築より構造と木組みが複雑になるため、時には模型を制作し、検討を行うこともある。
崇礼門全景(1398年、ソウル)
崇礼門は朝鮮時代の首都漢陽を囲んでいた城郭の正門で、南に位置していることから南大門とも呼ばれる。重層楼閣建築で、朝鮮初期木造建築の特徴をよくあらわしている。重層建築は単層建築より構造と木組みが複雑になるため、時には模型を制作し、検討を行うこともある。
大工にとって道具は大事な手である。道具の使い方を見れば、その人の腕がわかる。申が保有している手道具は定規(尺、ジャ)、墨壺(墨筒、モクトン)、鋸(トップ)、鉋(デペ)、セン(鋌、フチギ)、鑿(クル)など約50点。そのほとんどは1960年代以降国内で制作され、人生をともに歩んできた。韓国でも電動道具の普及とともに手道具は使われなくなった。しかし手道具の使い方を知っていて使わないのと知らないのでは、大きく違うと申はいう。木造建築の様式と造形は大工道具と密接な関係にあると申は考えている。そのため文化財の修理復元工事にはできるだけ手道具を使うよう心がけている。最近の崇礼門復元では朝鮮時代の手道具を使用して工事を進めた。
鉋(デペ) 申鷹秀蔵
現在韓国で使われている大工道具はほとんど植民地時代に使われた日本式の道具である。朝鮮式の鉋は把手があって、それをにぎり押して使う。押したほうが体に負担が少なく、一日中仕事ができると申はいう。鉋は大工になると最初に使う道具だが、削る面の正確さが求められるため、熟練の腕が必要な道具でもある。
宮殿建築の伝統技術は徒弟制度を通じて伝承されてきた。申も師匠から教わった宮殿建築技術に基づきながら、数十年間、宮殿修理工事で培ってきた技術を体系化して、弟子たちに伝授している。大木匠の伝統技術は1980年、国の重要無形文化財指定を受け、保護・育成がはかられるようになった。現在、宮殿建築の大木匠は申ただ一人である。大工にとって最高の師匠は現場だと申はいう。師匠に教えてもらうだけに満足せず、先人が残した古い建物から、その技と知恵を学ぶ努力をしなければ匠の資格はないと断言する。「間違うことは誰にでもある。ただ気がついたらすぐ直すことだ。その建物はこれから何百年立ち続けるわけだから、今怒られたとしても直さなければならない。いつでも最善を尽くすことが大事だ」と弟子たちにいう。