絵本は子どもが最初に出会う本
こぐま社創設者 佐藤 英和

絵本は子どもが最初に出会う本です。ながい読書生活を通して読む本の中で、いちばんたいせつな本です。
その子どもが絵本の中で見つけ出す楽しみの量によって、生涯、その子どもが本好きになるかどうかがきまるでしょう。
(ドロシー・ホワイト)

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おとなは文字でストーリーをイメージできるし、理解できます。しかし、幼児は文字が読めないので、絵の力をかりてストーリーをイメージし、理解するのです。

(2)

文字が読めないということは、ストーリーを理解するということとは関係ありません。よむ、という作業は、はじめ、絵をよむという作業からはじまります。だから、絵をよむことのできない子どもは、文字を読んでも、ストーリーをイメージすることが十分にできないのです。

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絵本の絵は、一場面、一場面ごとに独立しているのではなく、時間的・空間的につながりを持っています。だから、いい絵本の場合、子どもは絵によって物語を読むことができるのです。

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それでは、絵を読むとは、どういうことでしょうか。それには読める絵であることが前提となります。単なる文章の説明であったり、物語の絵となる部分を、さし絵として書いたものであったりしてはなりません。(“おおきなかぶ”の日本版と英語版のちがいの中で)したがって、場面と場面の間には子どもが理解できないような飛躍がありません。

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いい絵本は想像力を引き出します。何場面かの絵によってストーリーがくりひろげられる場合、一つの場面で次の場面をめくる期待は高められます。その間に想像力が働いて、絵本を読む作業が行われます。

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しかし、子どもは、はじめからひとりで絵をよむ、という作業をすることはできません。まず、おかあさんが読んであげてください。いっしょに絵を読むことによって、子どもは、絵本を読むよろこびを、体得するのです。

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いい絵本は、子どものこころの食物です。本を読む、ということは、人間が食物を食べる、ということと、大変似た働きをします。というのは、食べたものは体の中にはいると、消化作用を経てエネルギーに変わり、消化できないものは、排せつされます。本を読む、ということも、記憶や理解や、認識によって、読んだもの、ことがらが、知識となり、あるいは情緒を養い、その作用をとおして、いわゆる心の成長があるのです。だから、適当な時期に、適当な絵本を読む、ということは、たいせつなことです。

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それでは、いい絵本を見わけるには、どうしたらいいでしょう。まず、古典的な絵本を読みましょう。長い歴史の淘汰を経てきた絵本には、子どもたちをひきつけてはなさない力があります。そして、古典を読むことによって、私たちは、絵本というものに対して抱いていた、先入観をぬぐいさることが、できるのです。(色のこと、体裁のことなど。)

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残念ながら、日本の絵本はおくれています。それは、日本の歴史が、かつて子どもを大切にしなかったことに深くかかわりがあります。今でもこころを寒くさせるような絵本がつくられているし、それが、売れているのです。しかし、それは、出版社だけの責任ではなく、おかあさん方の責任でもあります。なぜなら、絵本は、おかあさんを媒介として、子どもの手にわたるのですから。

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しかし、外国のすぐれた絵本も、幼い子どもにとって、習慣や生活環境の違いから、充分な理解をさまたげることが、多くあります。このことをもっと重要に考えなければ、子どもたちは、せっかくのいい絵本にそっぽをむくし、無理に与えれば、本ぎらいになってしまいます。

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日本の子どもには、日本人のつくった創作絵本を読ませたいと思います。しかし、この仕事は、緒についたばかりです。おかあさんたちの、よき理解と協力が、これから日本の絵本を育てていくのです。

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子どもを、本好きにみちびくためには、早急な成果を期待しないでください。いい絵本には、生命がありますから、成長のいろいろな過程で、さまざまな興味をひきだす力をもっています。気長く、本棚に、一冊、また一冊、と、ふやしてあげてください。昨日興味を示さなかったのに、きょう示す、ということもあるし、兄はおもしろがったのに、弟は見むきもしない、という本もあります。幼い日に読んだ絵本が、本当にその人にとって豊かな実りをむすぶものであったかどうかは、たしかめるために長い時間を必要とするのです。すべてをおかあさんたちがたしかめるわけにもいかなのです。

(昭和42年ごろの三宅興子さんらとの勉強会のレジュメ資料より)
1967年ごろに佐藤英和さんが勉強会で配布したというガリ版刷り