絵本づくりのマイスター わかやまけん

プロフィール

1930年岐阜生まれ。グラフィックデザインの世界から絵本界へ。1968年『きつねやまのよめいり』(こぐま社)で第16回サンケイ児童出版文化賞を受賞、海外などでも評価を受け、NHKの推薦図書にも選ばれる。その原画はチェコスロバキアのブラチスラバで開催された国際絵本原画展で、リトグラフによる淡い色調が話題を呼ぶ。『あかべこのおはなし』は、1981年、サンケイ児童出版文化賞推薦作品。
また、はじめて絵本に出会う幼い子どもたちのために、はっきりした形と明快な色彩で幼児の生活を描いた「こぐまちゃんえほん」シリーズは、累計900万部を超えるあかちゃん絵本のロングセラー。なかでも一番人気のある『しろくまちゃんのほっとけーき』は、現在195刷、258万部を超える。

主な作品

「こぐまちゃんえほんシリーズ」
『こぐまちゃんおはよう』、 『こぐまちゃんのみずあそび』、 『しろくまちゃんのほっとけーき』等
『あかべこのおはなし』『きつねやまのよめいり』『たっちゃんのながぐつ』(いずれも、こぐま社)

こぐまちゃんのシリーズを語る ― わかやまけん

劇作家、歌人、編集者とのコラボレーションで作り上げた絵本!

「こぐまちゃんえほん」シリーズには、生みの親と育ての親がいるんですよ。
生みの親は、僕なんですが育ての親には、森久保仙太郎(もりひさし)さん、和田義臣さん、そしてこぐま社の社長の佐藤英和さんがいます。ふつうの絵本ですと、ひとりの作家なりが、ひとりの考えで絵本をつくり、個性的な世界をつくっていきますが、「こぐまちゃん」は、最初から4人の合議制で進めて行こう、とはじめたんですね。
「こぐまちゃん」が出来るにあたってラッキーだったのは、合議制で進めた良さがでたということと、ちょうど僕の娘と息子が「こぐまちゃん」と同じ 2、3歳の時期だったんですよね。友だちもたくさんいて、よく家にあそびに来ていました。だから、うちの庭が「こぐまちゃん」の舞台だったんです。

こぐまちゃんは子どもが最初に出会うぬいぐるみのお友達!

最初にこぐまちゃんをつくるとき、どのような形にしていくか基本的な形を決めることにしました。縦線を描いて、コンパスで丸を描いて…。僕は、グラフィックデザイナーだったので、コンパスでも定規でも、同じものを描いていくなんて、お茶の子さいさいなんです。だけど、だんだんこれが面倒くさくなってね…。それで、デザイン的に処理するんではなくて、やけのやんぱちで、ラフにくるくるくるって描いていたら、こぐまちゃんのこの耳のようないびつな形が面白くなっちゃったんですね。
それを編集会議に持っていったら、それが良い、ということになって、それでいまのこぐまちゃんになったんです。お母さんが作ってくれた素朴な手作りのぬいぐるみのような、そんな雰囲気が、こうしてこぐまちゃんが愛されつづけてきた理由なのかもしれません。

「うんち」がいい! 絵本史上はじめてうんちが公然と絵本に載った!

「この頃、うちでは息子がちょうど排泄のしつけで大騒動の時期だったんです。それで、「こぐまちゃんおはよう」の企画会議をしたときに、ぜったい排泄のシーンを入れて欲しいと頑張ったんですよ。日本の絵本史上初めて、うんちが公然と絵本に載ったんですね(笑)。
なるべく、上品におまるをデザインして、ことばも「まだですか。まだですよ。こぐまちゃんは まいにち うんちをします」ときれいな日本語をつけて…。これで、うんちが評判良いということになったんですね。

クーヨン7月号(2000年)インタビューより

4人の生みの親

「こぐまちゃんえほん」シリーズは、集団制作という特別な形をとって作られました。「当時、日本で絵本というと、作家が物語を書き、それに画家が絵をつけるというのが一般的なやり方でした。しかし、私は字が読めない子どもたちのための絵本ならば、初めから絵で考えることが真っ当ではないかと考えたのです。」そして、この考えを伝えたのが、グラフィックデザインの世界から絵本の世界に入って活躍していた若山憲先生、当時小学校の先生で歌人でもあった森久保仙太郎先生、そして、児童劇の脚本家、和田義臣先生でした。絵とことば、そしてお話に必要なドラマの専門家である 3人が、編集者の佐藤さんのもとに集まって「日本の子どもたちが初めて出会う絵本は、どんな絵本がいいのか」ということを話し合う編集会議がスタートしたのです。

主人公はくまのぬいぐるみ

4人はまず絵本のキャラクターを考えます。子どもたちにとって一番最初の友だちはぬいぐるみ。ぬいぐるみで一番好まれているのはくま……。そして佐藤さんのニックネームが「くま」で、それが社名の由来にもなったこともあって、主人公は「こぐま」に決まりました。
そして、若山憲さんの描くラフで素朴な形が作られていったのです。

原点を大切に

こぐまちゃんの形が決まり、つぎに話し合ったのは、こぐまちゃんがどんな服装をしているのかということ。「子どもたちに長く読み継がれて欲しい。」そう願っていた 4人の結論は、衣服の原点、ポンチョの形でした。「ポンチョに何もないのは寂しいので、二つのボタンをつける」というところで落ち着いたのだそうです。
こうして決まった衣服以外にも、「原点」ということを大切に、こぐまちゃんの絵本シリーズは作られました。
『しろくまちゃんのほっとけーき』でも材料はもちろんホットケーキミックスなどは使わずに、卵に牛乳、小麦粉、お砂糖、ふくらし粉。あとは焼くだけのお菓子作りの原点のような料理。若山先生は語っています。
「衣服もそうですが、絵本を作るときに原点を大切にしたことが、こぐまちゃんがずっと残ってきた秘訣でしょうか。原点って、素朴で野暮ったいようだけど、強いんです。<食べる>とか<水遊び>とか、これから何千年経っても変わらないだろうと思いますから。」

こぐま社発行『こぐまのともだち』2001年春号No.20より

美しいふくしまの美しい絵本『あかべこのおはなし』のこと
あかべこの色いろ ― 作者のことば わかやま けん

『あかべこのおはなし』を描き始める時、まず気になったのが、あの短い足で歩かせたり、走らせたりができるのだろうかだった。会津若松の五十嵐民芸店の五十嵐さんをたずね、古い木型や、さまざまな足のあかべこを見せてもらっているうちに、あたまの中で何となくあかべこが歩き始めた。けれど、いざ絵にしてみると、まだ足が短くて何とも歩かせにくい。しばらくして、京都のみかづきコレクションのあかべこを見て、その足の長いことに驚いたが、これこそべこの足の造形美だと感心もした。この古風なあかべこの足を借りてきたことで、あかべこはすなおに歩いてくれた。あかべこの赤い色は、幼児がなめてもいいようにと昔から食紅が使われていたと聞いたが、なかなか味のある色だ。それがあかべこの量産化とともにけばけばしい朱べこになり、橙べこになり、とうとうキンキンの金べこになってきた。色だけではなく、紙の張子はペカペカの化学物質になり成型の簡略化で頭はやせほそり、角は棒に、足は三角になり、形からも色からも素朴さと美しさは消えさり、その上なにもなかったあかべこの背中に、米俵や稲穂、鈴や金庫がのせられてきた。『あかべこのおはなし』では、ゆがめられた現代の型を、古風な形と色の美しさによってよみがえらせてみた。そして、いま、あざやかによみがえったことで心ひろがる思いだ。あかべことともに喜んでみたい。

ふるさとの絵本  ― 作者のことば わだ よしおみ

日本の風物をふんだんに折りこんで、現代の絵本をつくってみたい―絵本づくりをはじめたときから私はそう考えていました。ポターやカリジェを引合いに出すまでもなく、ふるさとの匂いのする絵本はたくさんあります。それを、私たちの身のまわりでなんとかやってみたかったのです。私が初めて会津に足を運んだのは、もう13年前になります。喜多方の昭電工場へ取材の旅でした。それから、あかべこと磐梯山にとりつかれて、絵本にしたくて、会津若松の駅に降り立ったのが72年の正月でした。会津タクシーの笠間さんの車で、あちこち走り廻りました。その年 3月、こんどは若山さんと共に来ました。彼岸獅子が町をねっていました。
初めて五十嵐新ーさんの店に行き、伝統あかべこを見ました。主人公がきまったのです。それから毎年、会津行が続きました。時にはこぐまの同人もいっしょでした。磐梯山、猪苗代湖、飯盛山、戸ノ口原、滝沢峠、押立温泉、柳津、会津高田、場面を求めて歩きました。冬の湖に、白鳥も見ました。
「いったい、どんな話なんだ」なかなかできないので、友だちがききました。私は答えました。「あかべこが歩いて磐悌山にのぼるんだ」
74年には、若山さんと磐悌山に登りました。朝早く、押立の登山口から一直線にのぼって頂上に達したのは、ひる近くでした。
若山さんは、あかべこを歩かすのに苦労していました。私とイメージがどうしても食いちがうこともありました。あれもこれもと思っていたものを、もういちど拾て、主題をはっきりさせ、あかべこと磐梯山だけ残すようにしたとき、やっと絵本の形になりました。

『あかべこのおはなし』わだよしおみ/わかやまけん・作
初版(1980)時の「作者のことば」より

福島を舞台にした『あかべこのおはなし』は、2011 年の3.11 以降、美しい福島を多くの人に知ってほしい、少しでも福島の人たちの励みになればという願いを込めて、20 年ぶりに復刊されました。