1927年、青森県三戸町に生まれる。1949年、上京し漫画家としてスタートする。人間の哀しさ、おかしさを、暖かい画風と深味あるユーモア感覚で描いて、幼児からおとなまで、幅広い人々の支持をうけた。 『11ぴきのねこ』 (こぐま社)で第15 回サンケイ児童出版文化賞受賞、『11ぴきのねことあほうどり』(こぐま社)と日本経済新聞連載の『バクさん』で第19 回文藝春秋漫画賞受賞。日本漫画家協会、漫画集団、漫画家の絵本の会に所属した。2001年73歳で逝去。
『漫画『ブウタン』(第1回小学館漫画賞)、絵本『きつね森の山男』、『11ぴきのねこ』(サンケイ児童出版文化賞)、『11ぴきのねこマラソン大会』(ボローニャ国際児童図書展エルバ賞)、『バクさん』、『11ぴきのねことあほうどり』(第19回文藝春秋漫画賞)、『ぶたたぬききつねねこ』(厚生省児童福祉文化奨励賞)、デビュー作『ポストくん』、遺作『ぶどう畑のアオさん』
漫画家になってすぐの頃から、いつか絵本を描いてみたいと思っていました。でも、当時は絵本がまじめ一本の路線を走っていて、とても漫画家なんぞがやる仕事という雰囲気ではなかったです。同じように絵本を出したがっていた出版社の友人と、いつかね、きっとやろうねってしょっちゅう言い合っていましたけど。初めて絵本をその友人とだすことになった時、彼がぼくに言いました。「原稿料は今は払えないかもしれないけれど、でもきっとそのうちにね」と。ぼくも「ああ、いいすよ、いいすよ」と。実はぼく、全然売る気なんてなかったんです。売れるとも思っていなかった。ただただ、絵本を出したいと思っていただけだったのです。仕事というより遊びだったのかもしれない。
本というのは、勉強のためとか、何かを教えるためとかいうことではなく、完全に娯楽のためにあると、ぼくは思っています。もちろん、研究書とか教科書は別ですよ。子どもたちが読む本はできるだけ楽しく、面白くシンプルにあればいいと。その中に隠し味のように織り込まれた、作者からのメッセージをうけとめてもらえればうれしいと、そんなふうに思っているわけですな。とにかくぼくはいつも、面白いことを捜しています。それと、自分がかつておもしろかったことを子どもたちに伝えたいと思っています。何かを面白がれるということは、とてもすごいことですね。これまでも、これからも、ぼくはずっとそんなやりかたで漫画のような絵本を描いていくんでしょうね。フフフ…。
いまのおかあさま方は、どうも子どもに甘すぎます。それはもっぱら、子のタメを思う親心から発しているわけでありますが、保護過剰の結果は、必ずしもタメにばかりはなっていないように思います。
そのことは、幼児の絵本についても、確かに云えます。行く末、わが子に夢多く情操ゆたかな人間に成長してもらいたいのは、どのおかあさまも変わりありませんけれども、絵本のすべてが、ほのぼのと心あたたまるお話ばかりになっては、かえって子どもに対して不親切というものです。どんな栄養豊富な食べ物でも、それだけに偏っては、フクフク慢頭みたいな坊ちゃん嬢ちゃんが出来あがってしまいます。私の考えからすれば、時には、タメになりそうもないものを食べさせて、子どもに、眼を白黒させてやる必要があります。
そこで、さて、このたび私がつくりましたる絵本は――と、こう我田に水を引っぱってくるわけであります。 『11ぴきのねこ』は、ほのぼのともしていなければ、心あたたまりもしませんし、教訓もなければ勧善懲悪のお話でもありません。怪魚は悪者でないにもかかわらず、ねこたちの餌になってしまいます。しかも、このことは、ねこの側からすればハッピー・エンドです。さて、みなさま方に、ねこの喜びが伝わりましたならば、こちらもまことにハッピーであります。
「11ぴきのねこ」シリーズは、リトグラフ(石版画…本来は石灰石の板を使うが、現在はアルミ板などの金属板を使うことが多い)という版画技法を応用して制作されています。水と油の反発作用を利用したこの版画の技法は、他の技法のように原版を彫ったり、腐食させたりする必要がなく、紙に描写するのと同様な雰囲気で原版に描写することができるため、緻密で繊細な表現を再現することができます。
『11ぴきのねこ』の出版社であるこぐま社は、製版で4色<通常のカラー印刷で使われるシアン、マゼンタ、イエロー>に分解する必要がないため通常のオフセット印刷よりイニシャルコストが軽減できること、そして、色ごとに画家自身が版を描いていくため、手作りの温かみがある絵を子どもたちに届けられることに魅力を感じ、1966年(昭和41年)の会社設立当時から「11ぴきのねこ」シリーズだけでなく、多くの絵本をリトグラフを応用した描き分け方式で制作しています。
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馬場のぼるが編集者とストーリーのアイデアを練る。ゆるやかな雑談をしているうちに、作家の中で少しずつストーリーが固まってゆく。 |
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大まかなストーリーが決まったら、束見本(実際に使用する紙を用い、実際と同じ版型、ページ数で作った白紙の本)や画用紙に鉛筆やボールペン等でラフスケッチを描いていく。馬場のぼるの場合、文章もこの段階でほとんど決まっていることが多い。 |
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主版(おもはん)を制作する。主版とは絵の輪郭線のみが描かれた版のことで、一つの絵が刷り上げられていく上で基礎となる版となる。作家が輪郭線のみを墨で描いた絵を白黒撮影してフィルムを作り、版に焼いて、紙にうすい水色のインクで印刷する。これが、色版を描く際のアタリ(見当)になる。 |
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水色の線を手がかりにして、各色の版を作家自身が墨で描いていく。これが色版になる。一つの場面について、使う色の数だけ色版を描く必要がある。これを描き分け原画という。この原画を再び白黒撮影して、各色の版をつくっていく。 |
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こうしてできた墨版と色版で、版画のように色を刷り重ねていく。この最終段階まで、色のついた絵本の絵は、作家の頭の中にしか存在しない。 |
馬場先生は、1956年に第1回小学館漫画賞を受賞され、私が初めてお目にかかったころは、売れっ子の子ども漫画の漫画家としてマスコミや、出版社の人たちが追いかけ回すというような方でした。
そして、1963年に岩崎書店から「ポ二ー・ブックス」シリーズの一冊として、『きつね森の山男』を出され、翌年、「サンケイ児童出版文化賞」を受賞なさいました。これが馬場先生のおかきになった最初の絵本でした。このシリーズは、漫画家が絵を描くという画期的なものでしたが、残念ながら、造本上の問題で絶版になってしまったのです。
1966年、私がこぐま社を起こすと、先生は大変喜んでくださって、「自分も絵本の仕事をやりたい、それに力を入れていきたい」といわれました。私は「先生、一緒にやりましょう」と申し上げて、先生と私とは創作絵本づくりに力を合わせて取りくむことになりました。
「佐藤さん、対象は何歳くらいの子どもですか?」と私にお尋ねになりましたので、「まだ文字の読めない子どもです」とお答えしますと、先生は大変驚かれました。というのも、最初の絵本は、ご自分が子どもの頃に大好きだった『アリババと40人の盗賊』はどうだろう、と思っていらしたのです。それはお話に絵をつけた絵物語でした。そこで、私は自分が「絵本」というものをどう考えていて、どんな絵本をつくりたいのか、外国の絵本を持って行っては、ずいぶんとお話をいたしました。
私が考える絵本とは、まだ文字を読むに至らぬ子どもたちのための本です。ですから、「お話に絵をつけたもの」は絵本ではないのです。「お話を絵で、語ったものこそが絵本」なのです。ところが、お話なら何でも絵で語れるかというと、そんなことはありません。「お話を絵で語る」ということは、そんな簡単なことではないのです。
馬場先生は、このことをとてもよく理解してくださいました。そして、私が願っている通りの絵本を描いてくださったのです。それが、1967年に出版された『11ぴきのねこ』です。先生のこぐま社での第一作です。実に1年が経っておりました。