インタビュー/吉村順三の設計思想

話し手/吉村 隆子(吉村順三記念ギャラリー代表)・平尾 寬(建築家)
聞き手/松隈 洋(京都工芸繊維大学教授)
日時:2013年10月17日 14:00ー15:30  場所:吉村順三記念ギャラリーにて
*文中敬称略

吉村順三の作品創りに所員として立ち会った建築家の平尾寬さん、長女の吉村隆子さんに、素顔の吉村順三氏の創作に対する姿勢や伝えた言葉はどのようなものであったのか、京都工芸繊維大学の松隈洋教授が聞き手となりインタビューを行った。フォルムやデザインが主張し過ぎない心地よい空間を追求すること、そこに徹底した建築思想と、考え抜かれたディテールがあったこと、また使い手を何よりも大切にした吉村順三のものづくりの姿勢がうかがえる。


ー はじめに、吉村順三氏の原風景についてお尋ねしたいと思います。

吉村先生は、関東大震災の起きる以前の東京(本所緑町)の町で生まれ育ちました。当時の東京は、京都に負けないくらい街並みが美しかったと聞きますが、そのようなお話はされていましたか?
隆子: はい。掘割が縦横に走っていて、その川のほとりには柳の並木がありました。下町は、人情豊かでベニスの様にとても美しかったと話していました。
松隈: 商家でお育ちになったということで、街並みに対する家の構えや、街に対しての「振る舞い」や「常識」をわきまえ、建築の街との関わり方をきちんと携えていらっしゃったと思います。その美しい街並みは、関東大震災以降崩れてしまった。街並みのモラルが消えたのですね。
隆子: 昔は、一般の人が今よりもっと建築に対する知識を持っていた、とも話していました。例えば大工さん。大工さんが優秀でした。昔の人は、家を直したり、建て直したりするのが好きで、誰もが建築に関わっていた。そうすると、あの大工さんは優秀だよ……などと評判になり、町の大工さんの顔が見えていた。だから、一般の人も大工さんと話しながら家を創ることが出来た。良い建築のことも知識としてよく知っていたのですね。
松隈: 日本の建築家は良い職人に支えられていました。木造の歴史を綿々と繋いできた日本の伝統ですね。
平尾: 建築家が図面を描けば、良い建築が出来る時代でした。大工さんの優秀さに支えられていたのですね。


ー 学生時代にたくさんの経験をしました。

松隈: 吉村先生は、中学時代にすでに建築のコンペに入選しています。住宅設計の提案でした。
隆子: 中学2年生の時に関東大震災を経験しています。まさに、大正デモクラシーの時代で、府立三中(現都立両国高校)に通いましたが、その校長先生がすばらしい先生で、震災後、生徒全員の無事を確認して下さったそうです。その経験は吉村のヒューマニズムに繋がっていると思います。
松隈: 中学生のころから一人で旅行もされていますね。
隆子: い、何でも興味を持ったものは自分の眼で確かめたかったんだと思います。中学時代の先生との出会いは、その後の進む道に大きく 影響を与えています。英語も中学時代に学んだもので、海外での仕事でも十分に役立つほどの知識を得ました。
松隈: 美校生の時にレーモンドの事務所も、雑誌掲載の建築の情報から東京中を歩いて探したのですね。


ー 吉村先生は常にその場に発生する出来事を想定し、使い手にも細心の気遣いをしました。

松隈: 家でスケッチなどはされていたのですか?
隆子: 朝刊紙の折り込み広告の裏が白いと必ず、瞬く間にスケッチで埋まりました。建築の現場にはよく連れて行ってくれました。
松隈: 建築の話は家族にされていたのですか?
隆子: しょっちゅうしてました。私達に説明することで、イメージを言葉化して確認していたのかも知れません。
平尾: 先生は所員にもよく、質問しました。
隆子: 新宮殿を設計することになった時にこんな話があります。母と汽車で長い旅をするごとに、乗り合わせた一般の人達に、「新宮殿はどのような建築が良いと思いますか?」と意見を聞いたそうです。また、アメリカのホワイトハウスに見学に行き、一般の方々が大統領の執務室も見学出来るようになっている様子を見ましたので、新宮殿の設計をする時にも、この事を頭に入れていたのだと思います。
松隈: 天皇ご一家のためだけでなく、テレビに映ることや、一般の方々に見られることも検討されたのですね。
隆子: 表面には出ないところ、目につかないところにも気を遣ったのです。
レストランを設計するときには、ウェイターが客席を通らずに厨房に戻ることは出来ないか……と検討させることもありました。
松隈: 暖炉の設計の時に、所員に「煙の気持ちになってみたら?」と仰ったそうですね。
平尾: そうです。煙の流れが分からなければ暖炉の設計は出来ないんです。


ー 吉村先生は、戦争のことを忘れないように開戦の日に事務所を開設されたと聞きます。

松隈: 1941年最後の帰国船でアメリカから帰国して、12月8日に事務所を設立しています。
隆子: アメリカでの生活を経験していたので、戦争については、日本が愚かなことを始めてしまった、という認識が強かったのでしょう。


ー 親しい建築家はいらっしゃいましたか?

隆子: たくさんの方々と交流していました。前川國男さん、丹下健三さん、坂倉準三さんのお話は良くしていました。前川さんとは、音楽好きでも共通していましたし、上野の東京文化会館での音楽会ではよく出会って感想など話し合っていました。
民藝の柳宗悦家の方々とも親しかったですね。吉村は、物にはこだわらなかったのですが、カタチの良いものは好きでしたので、気が合ったのでしょう。奥様の兼子さんとも良くお話をしたそうです。


ー レーモンドとの関わりについて教えて下さい。

松隈: レーモンドのお話は家族にもされていましたか?
隆子: 麻布の笄町の事務所には良く行っていました。自宅でのパーティーには母も一緒に呼ばれて私はお留守番の夜が多かったことを記憶しています。レーモンドがチェロを弾いて、母が一緒に演奏することもありました。
松隈: 1975年にレーモンドのアメリカの事務所へ平尾さんも先生と一緒に行かれているのですね。
平尾: その時、レーモンドの「ディテール集は吉村先生が作った」と、レーモンドが言っていました。
松隈: それが、出版されたレーモンドのディテール集に繋がったのですね。それは、とても重要なことで、レーモンドのデザインを図面化することで、職人たちへ技術を伝えることが出来たのです。吉村先生ご自身も、図面化することでレーモンドのデザインを吸収していったのですね。
平尾: 吉村先生は決して多くを語りませんでしたが、今になって図面をよく見ると、先生の設計のプロセスが良く分かるのです。
松隈: 所員には、教えるというより、自分たちで読み取って、勉強しろと……。
平尾: 甘えるな……ということは、伝えられたと思っています。


ー 努力の人……建築を巡る旅も好きでした。

隆子: 当時は今の様に、照明や家具もいいデザインの物がそろっていなかったので、欲しいものは全部自分でデザインしなければならなかったのです。いつもいつも、デザインを考えている、という人でした。
考えに考え抜く……そのための努力は惜しみませんでした。
松隈: 戦後美術学校での最初の教え子、鈴木彰さん、鈴木正治さん、橋本嘉夫さん、今里隆さんとは良く旅行に行かれたのですね。
隆子: とても気が合っていたようです……先生を慕って下さり、良く一緒に旅行しました。


ー 教会のデザインは唯一、三里塚教会だけでした。

隆子: 教会の設計はずっとやりたいと言っていましたね。
松隈: レーモンド設計の聖ポール教会の時は現場監督でいらしたのですよね。
平尾: いえ、教会施工に直接関わったようには話していませんでした。ただ、直接聞いたことではないのですが、レーモンドから立面図を見せられて、意見を求められた時に、鐘楼の大きさについて意見を言ったと聞いています。
松隈: レーモンドはデザインを仕掛けていますよね。しかし、吉村先生の三里塚教会は、もっと力が抜けて自由に放たれている空間があります。
平尾: 力んだところを見せずに、大げさにせず、心地よく、経済的にも全てにおいてバランスが取れた雰囲気を作り上げている。それが吉村順三の設計だと思います。