『アプローチ』が1964年に季刊誌として創刊されて約半世紀。その間に紹介された竹中工務店施工の建築物は当然多いが、同時に、同誌は世界のすぐれた建築の紹介も行っていたから、建築文化史上の資料としての貢献度も極めて高いといっていいだろう。
私が、その編集責任者瀬底 恒さんから、初めて取材と執筆を依頼されたのは発刊3年目の1967年。それが一回で終わらず次々に依頼されるようになり、振り返ると2005年までの38年間に、24本もの原稿を執筆していたことを知り、いまは感慨無量である。
私自身は大学で建築を専攻したものの新聞記者となり、地方支局生活を3年近く勤めた後に、1960年の世界デザイン会議取材のため、東京本社に呼び戻された。
そのデザイン会議の事務局次長をされていたのが瀬底 恒さんで、六本木の事務所では何度か会い、その顔の広さと英語力には舌を巻いていた。ただ、それから数年後、広報会社コスモ・ピーアールに移られて『アプローチ』の編集責任者となられていた瀬底さんから、突然お声がかかり、瀬戸内海に竹中が建てたマツダ工場の取材執筆を依頼されたときには率直にいって驚いた。ただ竹中といえば、朝日新聞社とも縁がないわけではない。それに建築施工会社の軟弱地盤への挑戦など、もし自分が建築家になっていたらと思うと、人ごととは思えなかったのである。
当時は新聞社内でデザイン分野などを担当する家庭部にいたが、まもなく科学部に移り、さらには学芸部に移るなど、私自身の取材範囲も拡大していったが、その後も『アプローチ』からの取材依頼は続いた。瀬底さんが病床に倒れてから片腕だった水上町子さんが引き継がれ、その後、澤田直子さんに代られてからも時折の取材依頼は続き、朝日の定年後、慶応大学に移ってからも、何度か特集記事を引き受けることになった。それも、初期には竹中の技術開発のテーマが多かったが、70年の大阪万博の頃からは、万博そのものの特集記事にまで拡張するようになり、沖縄海洋博からつくば万博、さらには海外のセビリア万博からハノーバー万博まで取材、執筆を行うまでになっていった。新しいテーマの設定や取材上の注意などは、その都度、瀬底さん特有の説得力ある声で伺い、細かい取材上の注意までいただいた。現場には水上さんに同行して戴くことも多く、水上さんの細やかな心遣いもいまは懐かしく想い出している。
また、同誌を通じて瀬底さん自身の関心の高かった海外の建築家の特集を企画されることも多く、ご自身で「クリストファー・アレキサンダー論」まで寄稿されたこともあり、彼女の視野の広さと好奇心の深さに感心させられた。
私と瀬底さんの出会いについては、「瀬底 恒を巡る100人のボーイフレンド・ガールフレンド」のなかでも紹介しているが、彼女の、肩書きや、性別、権威に物怖じしない姿勢や、その達者な語学力、アイデア力が、今日の『アプローチ』誌を育て上げたものだろうと思っている。
It has been almost half a century since approach was first published in 1964. The magazine has introduced examples of architecture from around the world, in addition to that of Takenaka Corporation. Therefore, it is fair to say that it has made a significant contribution to the history of architectural culture.
Over the 38 years up to 2005, I wrote a total of 24 manuscripts for approach—a legacy that moves me deeply. I studied architecture in college but became a newspaper reporter. I was first asked to contribute by Ms. Tsune Sesoko of Cosmo Public Relations Corporation, who was the editor of approach. When she contacted me out of the blue for a story on a Mazda factory built by Takenaka, I have to admit I was surprised.
I continued to write articles for approach every now and then, even after Ms. Sesoko fell ill and Ms. Machiko Mizukami took over, followed later by Ms. Naoko Sawada. In the beginning, most of the subjects related to technical developments at Takenaka, but starting around the time of the 1970 World Expo in Osaka, the magazine expanded its content to the extent that it had a feature article on the World Expo itself. Each time I took on a new subject, Ms. Sesoko described to me the things I would need to note. Ms. Sesoko quite often organized feature articles on architects from overseas in whom she was personally interested. I was deeply impressed by the breadth of her horizons and the depth of her curiosity. I was especially amazed when she contributed a commentary on Christopher Alexander.
My encounter with Ms. Sesoko was described in a book titled 100 Boyfriends and Girlfriends of Tsune Sesoko. Her self-assuredness gave her an unflinching demeanor, and her excellent command of languages combined with the power of her ideas helped make approach into what it is today.