私の師吉田五十八は、近代数寄屋建築を確立した建築家である。
「知にして情に溺れず、常に、自分の仕事に対し一定の距離をおいて自分を眺めるだけの余裕があった。しかも、一切の贅肉という贅肉は容赦なく切り捨て、その厳しさには表裏の区別はなかった。時として、歴史さえ切り取って自分の枠内で浄化させるだけの見識があった、まさに余人の追従を許さぬ名人芸である。かくて、先生の作品の背骨となるものは精緻、その精緻さを有情たらしめたものは何か。先生は衆知の如く、自他共に許す長唄の名人である。恐らく、厳しい修練の結果であろう。作品に独得の余韻を観ずる所以もまたその辺にあるように思う。」
これは、村野藤吾先生が私の作品集の為に書いて下さった文章の中にある吉田五十八評である。吉田五十八の建築を「精緻と有情」という言葉によって的確に捉えている。
吉田五十八の幼少時の環境は、数寄屋建築を目指すのに相応しいものだった。東京日本橋の裕福な家に生まれ、普請道楽の父が京都から大工を呼んで作らせるといった環境で、建築に関する鋭い感覚が自然に培われた。また義姉と共に京都に度々出かけ、多くの古建築に接することによって、益々建築の感覚が磨かれていく。家中で、趣味として長唄を嗜んでいたという事も、数寄屋を手掛ける為の基礎となる。村野先生が記しておられる「有情」が、幼少時から形成されたのである。
しかし、大正という欧米の文化が急速に浸透しつつある時代の中で、吉田五十八も東京美術学校時代は、洋風建築を目指していた。卒業後の大正14年に、ヨーロッパに出かける。各地の様々な建築を見て、脈々と繋がる先祖からの遺伝子が名建築を生み出すということに気付き、帰国後、日本人である自分は日本建築を極めようと決める。殆どの建築家の目が欧米という彼方に向いていた時代において、自らの足下を見るという革新的な決断であった。そして、数寄屋建築の奥深さを、京都出身の棟梁岡村仁三に、仕事をしながら学ぶことになる。
当時の仕事の様子は、岡村棟梁の口述を記した文藝春秋刊「続職人衆昔ばなし」で知る事ができる。「この若い設計家がかいてくる図面が変わってるんです。よく言えば独創的、悪くいった時は全然納まらないという風変わりな設計ですから、私は「これは!」と思った。いまでもお分りのようになんしろ独特の神経が通っている。当時は約束もシキタリもご存じないし、お若いから一層です。「こんなもの作れません」「イヤ作れる」なんて激論したこともあります。」(抜粋)棟梁との激論を繰り返しながら、数寄屋の知識や伝統的技術を吸収した吉田五十八は、自分のやりたい新しいデザイン、工法を取り入れて、新時代の数寄屋、吉田流数寄屋建築を確立していく。
後に「吉田五十八戦前作品抄」と題する文章の中で「名工がいたから、私が新しいことが出来たともいえるので、私の数寄屋建築が生まれたということは、なんといっても、それらの名工の功績が顕著なわけです。」と述べているが、岡村棟梁始めとする優秀な棟梁や職方の存在が、いかに吉田作品にとって欠かすことができないものであったかがわかる。戦後は、戦前の住宅で試みたものを進化させて、公共性のある建築を近代日本建築でという方向に進み、日本芸術院会館や大和文華館等の作品を生み出していった。
私は、昭和20年東京美術学校の建築科に入学後まもなく当時教授だった吉田五十八から誘いを受けて研究室に入り、独立するまでの約20年間、師から様々なことを学んだ。独立後は、学んだ事を基に近代日本建築を追及し、国技館(共同設計)、平山郁夫美術館、京都醍醐寺霊宝館及び伝法学院、池上本門寺、金田中、大平正芳邸、平山郁夫邸等、大規模なものから住宅に至るまで数百件の作品を手掛けてきた。棟梁始め左官、建具等の職方の一人一人が持っているものを上手く引き出して最高のものに到達させるのが建築家の役割であり、優秀な棟梁や職方の存在があって始めて、作品が輝くのである。殆どの作品で、才能豊かな棟梁や職方に巡り会うことができたことは幸いであったと思う。
この展覧会を通して、棟梁達が長年の修業を経て体得した技術、知恵、美意識、そして弛まぬ探究心や辛抱強さといった精神性をも含め、次世代を担う若い方々に学んで欲しいと思う。技術を後世に伝えていくという意味で、また全てに効率性を重んじるこの時代に、丹念に作っていくことの重要性を再認識するという意味でも、この展覧会は大変意義深いものであると考える。
本模型は大徳寺玉林院蓑庵をモデルにした。