岐阜県平田の名家早川邸には、濃尾震災後、貴族院議員で数寄者としてきこえた早川周造の建てた居宅が残っている。中庭には今日庵写しの茶室と露地がつくられていたが、以前に取り壊された。この茶室について周造の記録帳には「起絵図吉田紹和 大工名古屋数寄屋得意 鎌蔵ノ建築ナリ」と記され、「吉田紹和」の好みで「鎌蔵」の手に成ったことが明らかである。その後広間をも紹和に頼んでいたが、紹和はとても多忙であったので武者小路千家の一指斎(11代家元)に依頼したことも記している。
吉田家初代紹和(1814〜94)は、建築、作庭に秀でた茶匠として知られていた。名古屋城二の丸庭園にもその遺作がある。吉田家は建築・作庭をお家芸として、紹敬(1849〜1903)、紹清(1884〜1966)と活動を続け、多くの作品を残したが、昭和の自邸など多くは戦災で失われた。しかし彼らの作成した設計図書である起し絵図は散見できる。
彼らの仕事は茶室が主体であったが、施主の求めに応じ居宅の一部や全体に及ぶこともあった。紹清の遺作には椅子式の応接間も見られる。
起し絵図という図法を大いに活用したのは茶匠であったと考えられる。技術者ではない茶匠にとって、設計に便利で施主に説明しやすい、折畳み式の簡易模型であったからである。図中各部の詳細寸法から材料など、必要な情報は全部記入される。これを渡された工匠(数寄屋大工)が読みとって施工する。
しかし起し絵図だけで、茶匠の構想や思いを端々まで工匠に伝えることは至難である。材料の選定をはじめ、寸法だけできめられない事柄が、数寄屋には沢山ある。
千利休に、使える「丸木」(丸太)を選んでもらう人がいた(利休の手紙より)。すでに早くから黒木の亭とか竹亭などと呼ばれ、自然の素材による風流な建築はおこなわれていた。利休は師・武野紹鷗(1502〜55)の完成した四畳半を、「侘数寄」のための茶室として、丸太柱と土壁で囲い窓をあけるという、草庵の構造に改めた。
もうここでは一定の柱や柱間寸法も、内法と小壁の区別もなく、堂宮(社寺)や書院建築のような木割は全く成立しない。「真・行・草」で言えば「草」の建築である。自由に見える草の建築にもやはり規矩はある。利休はそれを把握していたから丸太が選べたのである。古田織部(1544〜1615)は奈良の松屋に茶室を依頼された時、指図と共に、床柱と中柱を選んで墨付けをして送っていた。利休が丸太を選んだ能力には、そうした墨付けに至るまでの技術が含まれていたと言ってよい。
茶匠の構想を実現するためには工匠の技術が必要であるが、図面では伝えにくいさまざまな思いの届く、工匠であることが望ましい。茶匠たちの創意がよく理解できて、丸太普請を得意とする工匠が、いわゆる数寄屋大工のはじまりであったと考えられる。さきに記した鎌蔵も、紹和と阿吽の息の通う間柄であったのであろう。紹和、紹敬、紹清三代は、名古屋の松尾家代々とともに茶室を好むという利休以来の茶匠たちの、プロフェッショナルな設計活動を実践し得た、最後の茶匠たちであったと思う。
平内家の木割書『匠明』に見る「当代武家屋敷之図」の一画に「すきや」「くさりの間」が記入されていたように、武家屋敷にも茶会の施設を設けるのが通例になっていた。
当然武家に出入りする数寄屋大工もいたし、江戸初期から近畿一帯の大工を支配した中井家の作事組織のなかにも数寄屋大工は組み込まれていた。(谷直樹『中井家大工支配の研究』)
この本の著者である伊藤景治は、淀藩主・永井信濃守尚政の家臣であり、その数寄屋の博学な知識をまとめたものである。折釘や炉縁、行灯といった茶室に必要な諸道具から、床や炉、下地窓などの茶室の建築構成にいたるまで、図入りで寸法と仕様が書き上げられている。この時代すでに、極めて細やかな茶室の様式が定まっていたことがわかる。また、千利休・織田有楽・古田織部・千道安といった茶匠の茶室が、間取り図と詳細な寸法で説明されており、茶匠の好みを記録する貴重な書でもある。
紙を立て起こして立体的な部屋を表現する模型を、「起し絵図」と呼ぶ。小さな部屋に様々な意匠が盛り込まれる茶室では、壁や天井、窓や建具の組み合わせが複雑となる。起し絵図を用いることで、建築的な知識や技術のない数寄者でも、茶室の造形の全体像を理解し、また数寄屋大工に説明することができた。起し絵図の壁面は、立て起こしてそのまま垂直に固定されるように、一方に爪をつくり出し他方の穴に差し込んでいく。また天井を表現するために、壁の台紙を延長させて折り曲げるなど、独特な工夫が施されている。
利休輩下の大工から細川三斎(1563〜1645)輩下の大工に送られたものかと想われる、『利休居士細川江来書』(国会図書館蔵)が写本で伝えられていることからも、大工技術の交流があったことが想像できよう。『所々数寄屋絵図中井主水扣』の中には、当時流布していた茶室平面図と共に、他には見られない尾形光琳の御室の山荘の図が含まれており、中井主水(正知)といえども数寄屋に対する関心の浅くなかったことを語っている。
表千家如心斎(7代家元)門下の数寄者であった大坂の鴻池了瑛は、寛保2年(1742)大徳寺玉林院に位牌堂南明庵を建立した。その西に蓑庵、東に霞床席を付設した。牌堂は基壇上にこそ建つが、茅葺入母屋造りに桟瓦葺の庇をめぐらし、火灯窓こそあいているが、余り仏堂らしくない草堂である。
それにもかかわらず、棟札によると牌堂は宮大工の「林重右衛門」、数寄屋と鎖の間は「遠藤庄右衛門」が手がけたのであった。これより少し前元文5年(1740)如心斎が聚光院に寄付した茶室・閑隠席では「大工重右衛門」の名が見える(「聚光院小座敷金銀納下帳」)。これは本堂背後の「御書院」の一室を改造して建てられたため、大徳寺大工の重右衛門の名義で一連の書類が作られたのであって、実際の仕事は遠藤庄右衛門が携わったのではなかろうか。
蓑庵も閑隠席も手法の差が余り見いだせないし、共に卓越した丸太普請の技が光っている。如心斎の弟子の川上不白(江戸千家・1719〜1807)は、「昔ハ木の生れの通リノ木也 其木太ト成ルをめんもつら付多して全体かつしりと見ゆる」と、初期の丸太普請を讃え、この頃は「兎角ひなやかニよハく」なったと批判していた(不白筆記)。蓑庵や閑隠席には、まだ不白の言う昔風を残しながら、技法に洗練が加わっている。
表千家では文化年間頃、大工「匠五郎」が出入りしていた。江戸末の屋敷図にも「正五郎」の名が見える。裏千家では玄々斎(11代家元)の増築を初代木村清兵衛が、武者小路千家には明治の再建を平井儀助が、藪内家の明治再建は小矢野越前が手がけた。
近代に入ると政財界の実力者たちは競って邸宅や山荘を営んだ。彼らはほとんど数寄者で、庭屋一如の空間を理想とし、茶室も設けた。それらを手がけるのは数寄屋大工、あるいは数寄屋も得意とする町屋大工であった。
施主は趣味教養豊かで美意識も高く、建築にも、用材を選び、意匠を凝らし、技術を求めるが、権力や富を誇り飾ろうとはせず、むしろ環境や自然との調和を大切にした。それこそ数寄屋造りである。そこでは「草」の建築を得意として、「真」を「行」に、「行」を「草」に造形することができた数寄屋大工が活躍する。立派に見せない建物をつくる、これは茶の湯と通底する思想であった。
特に茶家の出入りではなく、こうした施主に信頼されて腕を振るった数寄屋大工も少なくなかった。京都で一世を風靡した上坂浅次郎は、数寄屋を得意とした町屋大工であったが、彼に師事した北村捨次郎は、後年関西を代表した数寄者野村得庵(野村證券創業者・1878〜1945)に迎えられ、広大な碧雲荘の建築を手がけた。彼の工夫する新しい技法は、同僚を驚嘆させ、他の追随を許さなかったという。
木割のない自由な草の技法を駆使する数寄屋大工は、真や行の建築では出来ない軽妙で大胆な構成を創出することもできた。多彩な数寄屋造りの建築美が展開されたのはそのためである。
丸太は厳密に言えば、全く同一の材は一本もない。それぞれ癖がある。皮付の自然木が混じることもある。それらを一室に、一つの建物に纏めるために、丸太にどのような加工を施すか、加工如何によって、座敷の、建物の雰囲気も風格や品位も変る。基本的なつら付け以外に、例えば表面の凹凸をどう整えるか、出節や入節を生かすか、はつるか、多様な工夫の仕方がある。特に出節が多く、末おちのきつい档丸太の扱いはむつかしい。面皮丸太をつくるのも一様ではない。角材の仕上げにはない難しい技が要求されるのが丸太普請である。特に茶室のような小座敷では、そうした技術の影響が大きい。茶室では、茶の雰囲気を妨げる騒がしさや、いかつさを感じさせてはならない。数寄屋大工はツラの表情にも気を遣う。そのために自身で鉋をつくる。茶ごころを感じさせるようなつらを、施したいと執念を募らせるのである。数寄屋大工の探究すべき技と感性の奥は深い。
半畳、大目、一畳、四畳半といった様々な大きさを示す畳の紙模型である。また畳以外にも、「書院」「床」「エン(縁)」「水屋」など関連する部屋の紙もつくられている。茶室の基本となる畳や床の大きさは統一されている。それでも、これらの組み合わせから、多種多様な茶室の間取りが生み出されていく。雛形の組み合わせを眺めながら、茶匠と数寄屋大工は茶室の間取りを決めていったと考えられる。
武野紹鷗、千利休、古田織部、織田有楽といった優れた数寄者ゆかりの茶室をあつめた平面図集である。平面の作り方だけではなく、使われている材種や建具の種類などの書き込みもある。茶室は格式を重んじるため、数寄屋大工は古典的な名席や優れた茶匠の好みをひととおり学ばなければならなかった。古典や好みを踏まえたうえで、自らの創意を発揮していたのである。こうした平面図集が、江戸時代後期には普及していた。